心のデボーション221

デボーション1
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† 心のデボーション 02201

「愛する者よ、斯くのごとく神われらを愛し給ひたれば、我らも亦たがひに相愛すべし。」 Ⅰヨハネ4:11 明治元訳聖書

「愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。」 口語訳聖書

 「深い愛」

誰をも愛せるという人は、実は、誰も愛していないのかもしれない。この人は「どんな人でも愛せる自分の深い愛」を愛しているに過ぎないのかもしれない。誰をも愛せる人は身近な人とトラブルをおこしやすいものだ。これほどに「深い愛」に満たされた自分を受け入れてもらえないことに怒る。人の中には、あまり親しくなれないと感じる相手もいる。だかといって、「互いに愛し合う」ために、その人を無理に愛そうとする必要はない。親しくはなれなくても「互いに愛し合う」ことはできるのだ。

(†心のデボーション02201)

† 心のデボーション 02202

「幸福なるかな、義に飢ゑ渇く者。その人は飽くことを得ん」 マタイ5:6 大正文語訳聖書

「義に飢えかわく人は幸いである、その人は満たされるであろう」 フランシスコ会訳聖書

 「飽くまで」

「義に飢え渇く人は幸いである」、その人は「義に満たされる」からである。「満たす Χορτάζω  こルタゾー」は「腹一杯になる」の意味である。藤井武は「この願いだけはきっと聴かれる、飽くまでに、満ち足りるまでに聴かれる」と解説している。(藤井武『信仰生活』より)

(†心のデボーション02202)

† 心のデボーション 02203

「神モーセにいひたまひけるは我は有て在る者なり又いひたまひけるは汝かくイスラエルの子孫にいふべし我有といふ者我を汝らに遣したまふと」 出エジプト3:14 明治元訳聖書

「神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。 口語訳聖書

 「我思う故に我あり」

ヘレン・ケラーは、デカルトの「我思う故に我あり Cogito ergo sum.(コギト・エルゴ・スム)」の言葉を知って、肉体的なハンディは自分の本質ではない、本質は自分の心にある、という信念を得て、自分を一生支える言葉に出会ったと言ったという。色も音もない世界でも「考える」ことができる限り「我あり」と知ることができた。

(†心のデボーション02203)

† 心のデボーション 02204

「イエス坐して十二弟子を呼び、之に言ひたまふ『人もし頭たらんと思はば、凡ての人の後となり、凡ての人の役者(えきしゃ)となるべし』」 マルコ9:35 大正文語訳

「そこで、イエスはすわって十二弟子を呼び、そして言われた、『だれでも一ばん先になろうと思うならば、一ばんあとになり、みんなに仕える者とならねばならない』」 口語訳聖書

 「仕える者」

仕えるとは先頭に立つことの反対で、いつも自分を後に置く。パウロは「愛をもって互いに仕えなさい」と語る。

愛とは仕えることである。仕えることのよろこびは、相手を知るにとどまらない。それを通して、自分を知り、自分を超えたもっと大きな存在に出会う。仕えることができないとき、人は自分を見失い、相手を見失い、礼拝すべきお方を見失っている。

(†心のデボーション02204)

† 心のデボーション 02205

「拙き者よなんぢら聰明に明かなれ 愚なる者よ汝ら明かなる心を得よ」 箴言8:5 明治元訳聖書

「思慮なき者よ、熟慮とは何かを見極めよ。/愚かな者よ、心を見極めよ。」 聖書協会共同訳聖書

 「熟慮」

「熟慮する בּין」は「識別する」の意味である。わきまえのない、浅はかさに留まれば分別を失う。立ち止まって自分を振り返ることだ。「拙き自己」を悟ることができれば分別が戻ってくる。

(†心のデボーション02205)

† 心のデボーション 02206

「ここにイエス御靈によりて荒野に導かれ給ふ、惡魔に試みられんとするなり」 マタイ4:1 大正文語訳聖書

「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」 新共同訳聖書

 「荒野」

「荒野 ἔρημος  エレーモス」は「人の住まない所、荒野、砂漠」を意味する。 寂しく、見捨てられた、孤独な「無人の地」である。人は内に「荒野 ἔρημος  エレーモス」をもっている。

ドイツの哲学者マックス・シュティルナー Max Stirner (本名 Johann Kasper Schmidt ヨハン・カスバー・シュミット 1806~56)は「孤独は知恵の最善の乳母」と言っている。

内なる「荒野 ρημος  エレーモス」で交わされるのは神と私の対話である。

(†心のデボーション02206)

† 心のデボーション 02207

「虜にせらるべき者は虜にせられん、劍にて殺す者はおのれも劍にて殺さるべし、聖徒たちの忍耐と信仰とは茲にあり。」 黙示13:10 大正文語訳聖書

「とりこになるべき者は、とりこになっていく。つるぎで殺す者は、自らもつるぎで殺されねばならない。ここに、聖徒たちの忍耐と信仰とがある。」 口語訳聖書

 「一つのビンの中の二匹のサソリ」

原爆開発の父と呼ばれたロバート.オッペンハイマーは晩年に政治に翻弄された科学者の苦悩を抱え、原爆投下につづく開発競争を批判して「我々の状態は一つのビンの中の二匹のサソリに似ているといえよう。どちらも相手を殺すことができるが自分も殺されることを覚悟しなければならない」と語ったという。「びんの中の2匹のサソリ」は肥大化し、ついに「びん」を割って地に出て、小さなサソリを無数に生み出してしまったようだ。

(†心のデボーション02207)

† 心のデボーション 02208

「かれら互に言ふ『途にて我らと語り、我らに聖書を説明し給へるとき、我らの心、内に燃えしならずや』」 ルカ24:32 大正文語訳聖書

「二人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』」 新共同訳聖書

 「心のうちに燃える」

「心はうちに燃える καίω  カイオー」は「心のうちに点火される」という意味である。復活の主にお会いして二人の弟子は心の灯火が点火されたのである。この時代、火をおこすには火打ち石が使われた。固い石に鉄を打ちつけて、素早く火種に移した。はじめ、それは小さな火である。弟子たちの心に点った灯火も初めは小さな明かりであったろう。しかし、小さな火をおろそかにしてはいけない。やがて炎と燃え上がる。太い木はいきなり燃えない。小さな木をくべることからはじめたい。

(†心のデボーション02208)

† 心のデボーション 02209

「イエス彼に言ひ給ふ『われは道なり、眞理なり、生命なり、我に由らでは誰にても父の御許にいたる者なし』」 ヨハネ14:6 大正文語訳聖書

「イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」 口語訳聖書

 「真理」

「真理 ἀληθής   アれーてース」は「隠されていない、あらわされているもの」の意味である。現実の、事実において真実であるものをさず。イエス・キリストは「真理 ἀληθής 」であり、ありのままの人間の現実的な事実となられた。人はイエス・キリストにおいてありのままの自己を知る。ありのままに生きるいのちに出会ったからである。

(†心のデボーション02209)

† 心のデボーション 02210

「われ愚なるによりてわが傷あしき臭をはなちて腐れただれたり」 詩篇38:5 明治元訳聖書

「わたしの愚かによって、わたしの傷は悪臭を放ち、腐れただれました。」 口語訳聖書

 「呆れが礼にくる」

日本のことわざに「呆れが礼にくる」という。あまりに呆れた状況に、呆れの方から礼がくるというのである。それほどの呆れはめったにないかといえば、そうではなく、私のところには、頻繁に現れる。その都度、丁寧にもてなしてお帰り願うしかない。別の言い方に「呆れが湯気(いげ)にあたる」というのがあるが、「呆れ」長湯するので、もてなしもほどほどがよい。

(†心のデボーション02210)

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