心のデボーション220

デボーション1
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† 心のデボーション 02191

「心の潔きを愛する者はその口唇に憐憫をもてり 王その友とならん」 箴言22:11 明治元訳聖書

「心の潔白を愛する者、その言葉の上品な者は、王がその友となる」 口語訳聖書

 「ふぇるじなんど」

マロン・リーフの「ふぇるじなんど」は一日中、木陰に座って花の匂いをかぐのが大好きな牛である。お母さんは良くできた牛で、そんな「ふぇるじなんど」を心配するが、考え直して好きなようにしておいてやる。やがて「ふぇるじなんど」は間違って闘牛場に連れていかれるが、闘牛場に座り込んで花の匂いをかぐばかり。それでまた元の牧場に戻されて幸せに暮らす。えらかったのは「ふぇるじなんど」のお母さんだと思う。

(†心のデボーション02191)

† 心のデボーション 02192

「怒をやめ忿恚をすてよ 心をなやむるなかれ これ惡をおこなふ方にうつらん」 詩篇37:8 明治元訳聖書

「怒りをやめ、憤りを捨てよ。心を悩ますな、これはただ悪を行うに至るのみだ。」 口語訳聖書

 「行き過ぎた怒り」

セネカの言葉に「Immodica ira gignit insaniam. 過度の怒りは狂気を生む」とある。(セネカ『倫理書簡集』)

ラテン語 immodicus  は「過度の、過大な、抑制のない」を意味し、insania は「精神錯乱」である。行き過ぎた怒りはすでに一種の精神的錯乱と思わねばならぬ。

(†心のデボーション02192)

† 心のデボーション 02193

「なんぢは祈るとき、己が部屋にいり、戸を閉ぢて隱れたるに在す汝の父に祈れ。さらば隱れたるに見給ふなんぢの父は報い給はん」 マタイ6:6 大正文語訳聖書

「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」 新共同訳聖書

 「孤独」

「内面的促しに忠実に生きようとするときに、ある状態、つまり、孤独なら孤独としか呼びようのない状態におちいってくる」(森有正『生きることと考えること』) この孤独は人の内に生まれるもので、内的存在としての孤独であり、存在へと人を導く。そこで人は祈りを学ぶ。

(†心のデボーション02193)

† 心のデボーション 02194

「試むる者きたりて言ふ『汝もし神の子ならば、命じて此等の石をパンと爲らしめよ』」 マタイ4:3 大正文語訳聖書

「そのとき試みる者が近づき、イエズスに、『もし、あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい』と言った」 フランシスコ会訳聖書

 「マザー・テレサ」

マザー・テレサはインドの街頭に行き、そのまま放っておけば、まもなく死ぬであろう人を施設に連れ帰り、手厚く看護し、食物を提供して、いのちを救った。その人が「再び、街頭で物乞いができる」ほどに体力が回復すると、施設から出るように命じた。施設においてくれるように強く願う者もいたが、テレサは認めなかったという。彼女は「石をパンにする」ことを拒み、それによってインドの貧しい人々を「人間」に戻そうとしたのである。

(†心のデボーション02194)

† 心のデボーション 02195

「之に生命あり、この生命は人の光なりき」 ヨハネ1:4 大正文語訳聖書

「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」 新共同訳聖書

 「命」

漢字の「命」という漢字は「令」に「口」を添えたもので、礼を尽くしてひざまずき、神に聴く人の姿を示す象形文字である。神に聴くことが、人をいのちある者とする。

(†心のデボーション02195)

† 心のデボーション 02196

「げに信仰と希望と愛と此の三つの者は限りなく存らん、而して其のうち最も大なるは愛なり」 Ⅰコリント13:13 大正文語訳聖書

「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」 新共同訳聖書

 「ザルツブルクの小枝」

「ザルツブルクの小枝」はスタンダールの「恋愛論」に出てくる。ザルツブルクの塩坑に、冬、枯れた小枝を投げ込むと2,3カ月後に塩の結晶が花のようにつく。スタンダールは、そのような恋愛を「情熱恋愛」と呼ぶ。恋愛にしても、経験にしても、一つの対象に関心を持ち続け、それを深めていくことが成熟した結晶作用を促してくれるようだ。恋愛の場合、たとえその恋愛が実らなくても、小枝には美しい塩の花が咲くだろう。

(†心のデボーション02196)

† 心のデボーション 02197

「この故に我らは落膽せず、我らが外なる人は壞るれども、内なる人は日々に新なり」 Ⅱコリント4:16 大正文語訳聖書

「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々に新たにされていきます」 新共同訳聖書

 「板につく」

就職して仕事になじんでくると、「制服が板についてきたね」などと言われる。「板」は板張りの舞台のことで、役者の芸が成熟して舞台になじむようになったことから来ている。態度や所作がなじむようになったら、「なじみ」を捨ててさらなる工夫を始めるがよい。

(†心のデボーション02197)

† 心のデボーション 02198

「これ故にわれ望む、男は怒らず爭はず、何れの處にても潔き手をあげて祈らんことを。」 Ⅰテモテ2:8 大正文語訳聖書

「ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。」 新改訳聖書

 「四分三十三秒」

作曲家ジョン・ケージがつくった「四分三十三秒」という曲がある。ピアニストがピアノの前に座り、四分三十三秒たつと、黙って立ち上がって退場するのである。その間、ピアノにはまったく指をふれず、音は出ないが、ピアニストの足音、ピアノを開ける音、会場のざわめきなど、それが一つの音楽だというのである。よほどのピアニストでなければ、この「曲」は弾けないかもしれない。「四分三十三秒」の祈りというのがあってもよい。

(†心のデボーション02198)

† 心のデボーション 02199

「希望は恥を來らせず、我らに賜ひたる聖靈によりて神の愛われらの心に注げばなり」 ロマ5:5 大正文語訳聖書

「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」 新改訳聖書

 「経験の深まり」

新幹線の窓に一瞬現れた富士山がハッとするほど美しこう見えることがある。富士山はいつもそこにあるのだが、それを見る時と、その時の人の状況が、全く新しい富士山との出会いとして心を揺さぶったのかもしれない。見慣れたものとしてではなく、自分の経験を通して風景を見るということが大切のようだ。

(†心のデボーション02199)

† 心のデボーション 02200

「かくてイエス彼等とともに下り、ナザレに往きて順ひ事へたまふ。其の母これらの事をことごとく心に藏む。」 ルカ2:51 大正文語訳聖書

「それからイエスは両親と一緒にナザレに下って行き、彼らにお仕えになった。母はこれらの事をみな心に留めていた。」口語訳聖書

 「心に留める」

ヨセフとマリヤはナザレに帰還してから、「御子イエス」の家族には目立って変化のない日々が続くことになった。しかし、マリヤは誕生の時に告げられた神の言葉を「みな心に留めていた。」(ルカ2:51 口語訳聖書) 「心に留める διατηρέω」は「注意深く守る、大事にしておく」の意味である。この言葉は「安全に保つ」という意味がこめられている。マリヤは自身と夫ヨセフに告げられた天使の御告げ(マタイ1:16~23)を注意深く、損なうことなく、心に留めた。このマリヤの信仰から、モーリヤックは次のようにすすめている。

「『神の子』が人間の肉の奥深くかくれ沈むのを、しばしそのままにしておかなければならない」(モーリヤック『イエスの生涯』より)

(†心のデボーション02200)

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