心のデボーション219

デボーション1
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† 心のデボーション 02181

「ここに散されたる者ども歴巡りて御言を宣べしが」 使徒8:4 大正文語訳聖書

「さて、散らされて行った人たちは、御言を宣べ伝えながら、めぐり歩いた」 口語訳聖書

 「迫害」

その日、エルサレムの教会に迫害がおこり、人々は地方に散らされた。しかし、散らされることは、決して悪いことばかりではなかった。人々は、「みことばを宣べながら」蜘蛛の子のように散っていった。迫害は彼らの教えを広める手助けをしてしまったのである。最悪のなかにもいいことはある。すごすごと逃げながらも、やれることはある。なにもできなくても、祈ることはできる。

(†心のデボーション02181)

† 心のデボーション 02182

「主ヱホバは敎をうけしものの舌をわれにあたへ言をもて疲れたるものを扶支ふることを知得しめたまふ また朝ごとに醒しわが耳をさまして敎をうけし者のごとく聞ことを得しめたまふ」 イザヤ50:4  明治元訳聖書

「主なる神は、弟子としての舌を私に与えた/疲れた者を言葉で励ますすべを学べるように。/主は朝ごとに私を呼び覚まし/私の耳を呼び覚まし/弟子として聞くようにしてくださる。」 聖書協会共同訳聖書

 「学校」

「学校 school」はラテン語で「学校」を意味するscholaからきており、schola はギリシャ語で「余暇」を意味するσχολή スコレー から来ている。古代ギリシャでは、学問は生活に余裕のある貴族に許されたところから、「ひまのあるときになされること」としてσχολή スコレーと呼ばれた。「余暇」から始まったことが、やがて「余暇」では足りなくなるのが学びの面白さである。ちなみに、筆者の隣町に日本最古の学校とされる「足利学校」(栃木県足利市)があり、暇な時の恰好な散歩道である。

(†心のデボーション02182)

† 心のデボーション 02183

「終に言はん、兄弟よ、凡そ眞なること、凡そ尊ぶべきこと、凡そ正しきこと、凡そ潔よきこと、凡そ愛すべきこと、凡そ令聞あること、如何なる徳いかなる譽にても、汝等これを念へ。」 ピリピ4:8 大正文語訳聖書

「最後に、兄弟たちよ。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい。」 口語訳聖書

 「徳」

「徳と言われるもの」を「心にとめなさい」と言われる。「徳 ἀρετή アレテー」は「人を卓越させるもの」の意味である。「卓越したもの」は、「魂の内にあるよきもの」のなかに見出される。

(†心のデボーション02183)

† 心のデボーション 02184

「ヱホバはすべての滑なるくちびると大なる言をかたる舌とをほろぼし給はん」 詩篇12:3 明治元訳聖書

「人はみなその隣り人に偽りを語り、へつらいのくちびると、ふたごころとをもって語る。」 口語訳聖書

 「白い嘘」

人をあざむくのが「黒い嘘」なら、人からあざむいてほしいと迫られるのが「白い嘘」であろう。黒くても白くても、嘘は嘘である。そこに「へつらいのくちびると傲慢の舌」が動くのをうっすらと感じないわけにはいかない。それを知った上で貫き通さなければならない嘘というものもある。

(†心のデボーション02184)

† 心のデボーション 02185

「御使、處女の許にきたりて言ふ『めでたし、惠まるる者よ、主なんぢと偕に在せり』」 ルカ1:28 大正文語訳聖書

「御使がマリヤのところにきて言った、『恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます』。」 口語訳聖書

 「神の祝福」

天使ガブリエルはマリヤに「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます」と告げ、エリサベツは「あなたは女の中で祝福されたかた、あなたの胎の実も祝福されています」と祝福した。(ルカ1:28,42)しかし、マリヤがこのことばの意味を知るのは33年後の、すべてが終わった復活の日である。その日、マリヤは自分が「女の中で祝福され」者であり、その「胎の実も祝福されている」ことを知ったのである。アブラハムもまた「神の祝福」の意味を知るまで長い間待たなければならなかった。

(†心のデボーション02185)

† 心のデボーション 02186

「試むる者きたりて言ふ『汝もし神の子ならば、命じて此等の石をパンと爲らしめよ』」 マタイ4:3 大正文語訳聖書

「そのとき試みる者が近づき、イエズスに、『もし、あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい』と言った」 フランシスコ会訳聖書

 「パンの問題」

人は「パン」がなくては生きていけない。「パン」を求める行為は神聖なものである。「汝は面に汗して食物を食ひ終に土に歸らん」 創世記3:19 明治元訳聖書 だが、人間にとって「パン」が「所有」の問題に変わるのにそう長い時間はかからなかった。所有を増やすことが人間の価値を決め、安定を約束したからだ。ここに所有を目的とする人間が生まれた。人間の未来は、いかにして「パン」の問題を神聖な業に戻すかにかかっている。

(†心のデボーション02186)

† 心のデボーション 02187

「われわが愛する者のために歌をつくり 我があいするものの葡萄園のことをうたはん」 イザヤ5:1 明治元訳聖書

「わたしはわが愛する者のために、そのぶどう畑についてのわが愛の歌をうたおう。」 口語訳聖書

 「磯の鮑」

「磯の鮑の片思い」という。「鮑」は巻貝なのに殻が二枚貝の片割れのように見えるところから、「片貝」と「片思い」かけて、この言葉が生まれたという。半分だけの思いをつのらせるのはつらいものだ。しかし、たとえ半分に終わっても、切ない思いから得るものは少なくない。

(†心のデボーション02187)

† 心のデボーション 02188

「願はくは、我らの父なる神および主イエス・キリストより賜ふ恩惠と平安と汝らに在らんことを。」 ガラテヤ1:3 大正文語訳聖書

「わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。」 口語訳聖書

 「恵み」

相手へのやさしさ、思いやりの心を「恵み」という。それは魅力と美しさを含んでいる。魅力的ではあっても美しくないやさしさというものあり、美しくても魅力のない思いやりというものもある。人は神の恵みに守られなければ、美しくも魅力的にもなれないのかもしれない。エレミヤはイスラエルが「荒野で恵みを得た」という言葉を伝えている。恵みに出会うには、荒野を通過しなければならないようである。

(†心のデボーション02188)

† 心のデボーショ 02189

「イエス之を聞きて人を避け、其處より舟にのりて寂しき處に往き給ひしを群衆ききて町々より徒歩にて從ひゆく」 マタイ14:13 大正文語訳聖書

「イエスは、それを聞かれると、小舟でひそかにそこから寂しい場所へと立ちのかれた。けれども群衆はそれを聞くと、町を出て陸路を<歩いて>彼のあとに従った」 詳訳聖書

 「寂しいところ」

「孤独とは経験(人間)そのものである。本当の孤独というのは、経験(他人によって置き換えることのできない経験)の核心が主体である、あるいは、孤独とは経験そのものであって、孤独であるということが、つまり人間であることだ、と思うのです。孤独というのは根本的には形而上学的なものだと思うのです。」(森有正 『生きることと考えること』より) 人は人間であることを取り戻すために「寂しい所」を必要とする。

(†心のデボーション02189)

† 心のデボーション 02190

「之に生命あり、この生命は人の光なりき」 ヨハネ1:4 大正文語訳聖書

「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」 新共同訳聖書

 「いのちの起源」

聖書は「いのちの起源」を神に見ている。天地創造の以前から、いのちは神の内にあり、生ける神と共にあった(成った)。人のいのちの尊厳は起源である神からくる。地のあらゆるいのちは神とともにある。

(†心のデボーション02190)

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