† 心のデボーション 02171
「ヱホバはあたらしき歌をわが口にいれたまへり此はわれらの神にささぐる讃美なり おほくの人はこれを見ておそれ かつヱホバによりたのまん」 詩篇40:3 明治元訳聖書
「主は新しい歌をわたしの口に授け、われらの神にささげるさんびの歌を/わたしの口に授けられた。多くの人はこれを見て恐れ、かつ主に信頼するであろう。」 口語訳聖書
「新しい歌」
人は「滅びの穴」からでも、神への賛美をうたうことができる。その時うたわれるのが「新しい歌」である。まだ希望の光が見えない暗闇の中で、「泥沼」から引き上げられる歌をうたう。「新しい歌」とは勝利に先立ち、救いを先取りする信仰の歌である。それ故に、何よりも新しい。「新しい歌」は、その後、終末にうたわれる。(黙示14:3)「新しい歌」は神から授けられる歌である。
(†心のデボーション02171)
† 心のデボーション 02172
「美しき所には、物を纏ふの要なし。神は劣れる所に殊に尊榮を加へて、人の體を調和したまへり。」 Ⅰコリント12:24 大正文語訳聖書
「麗しい部分はそうする必要がない。神は劣っている部分をいっそう見よくして、からだに調和をお与えになったのである。」 口語訳聖書
「容姿コンプレックス」
容姿は良くても悪しくても劣等感を生みだすようだ。小さいころから「美人」と甘やかされると、美人であることが唯一の拠り所になり、その他に自分の存在意味が見つけられなくなり、「美人」であることが劣等感の原因にもなることがあるという。容姿に自信がないゆえに、容姿以外のところに自分を見出すことができるのは幸いというべきか。
(†心のデボーション02172)
† 心のデボーション 02173
「おほよそ我にありて果を結ばぬ枝は、父これを除き、果を結ぶものは、いよいよ果を結ばせん爲に之を潔めたまふ。」 ヨハネ15:2 大正文語訳聖書
「わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。」 口語訳聖書
「始めよ」
「Incipe. Dimidium est facti coepisse. 始めよ。始めれば事の半分は成し遂げられたも同然」。これにまさる格言があろうか? 石に刻んで机の上に置き、絶えず眺めたいくらいな格言である。だが、着手したはよいが、中半に終わる仕事の山は何とする? 始めた後の「格言」が欲しいところだ。
(†心のデボーション02173)
† 心のデボーション 02174
「汝の糧食を水の上に投げよ 多くの日の後に汝ふたたび之を得ん」 伝道11:1 明治元訳聖書
「あなたのパンを水の上に投げよ。長い年月の後に、あなたはそれを見出すであろう」 フランシスコ会訳聖書
「幸運の船」
「パンを水の上に投げる」とは海上貿易と考えることもできる。船は長い航海の後に、多くの利益を伴って帰る。
この教えは、人生の後半に深い意味をもつかもしれない。人生の後半では、幸運の船は、忘れたころに、全く予期しないかたちで、突然現われる。思いがけない利益をどうするか、それが人生の後半からのテーマである。利益はパンとは限らない。
(†心のデボーション02174)
† 心のデボーション 02175
「かつ神の汝らに給ひし優れたる恩惠により、汝らを慕ひて汝等のために祈らん。」 Ⅱコリント9:14 大正文語訳聖書
「さらに、彼らはあなたがたに与えられた極めて豊かな神の恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るようになるのです。」 聖書協会共同訳聖書
「思慕の思い」
コリントの人々のための祈るごとに、パウロに彼らへの「思慕」の思いがつのった。「思慕 ἐπιποθέω」は「渇望する、切望する」の意味である。「祈り」は「思慕」の思いを促し、祈る人は「思慕の思い」をもって祈るのである。
(†心のデボーション02175)
† 心のデボーション 02176
「四十日四十夜斷食して、後に飢ゑたまふ」 マタイ4:2 大正文語訳聖書
「そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた」 新改訳聖書
「聖パトリックスデー」
聖パトリックスデーは、5世紀のアイルランドにキリスト教を伝えた守護聖人、聖パトリック(西暦423年3月17日歿)を記念して名付けられた祝日である。(日本では1992年から原宿表参道で3月17日の前後の日曜日にパレードがおこなわれる)。この日、アイルランド系移民は緑色の服を着てパレードを楽しむ。
アイルランドの西海岸にアイルランド語で「Croagh Patrick クロー・パトリック」という700m近くの岩山がある。「パトリックの山」とも呼ばれる。かつてこの山で聖パトリックがイエスの荒れ野での40日間の体験に倣って、40日間の苦行をした聖地とされる。頂上には教会が建ち、聖パトリックが使用したとされる石のベッドがある。毎年7月の最終日曜日は「Reek Sunday リーク・サンデー」と呼ばれる特別な日で、アイルランド全土から数千人の巡礼者が集まり、「Croagh Patrick クロー・パトリック」に登る。
「聖パトリック」の像は、彼が三つ葉のクローバーを使って「三位一体」を教えたことから、手にシャムロックと呼ばれる三つ葉のクローバーを持っている。一説によれば、この山で聖パトリックが『蛇よけのお祓い』をした為、アイルランド中の蛇が死んでしまい、以来アイルランドには蛇がいなくなったのだという。
(†心のデボーション02176)
† 心のデボーション 02177
「彼等はあひかたらひて義人のたましひをせめ罪なき血をつみに定む」 詩篇94:21 明治元訳聖書
「彼らは相結んで正しい人の魂を責め、罪のない者に死を宣告します。」 口語訳聖書
「相結ぶ」
悪しき人々は相はからって正しい人の魂を責める。「彼らは相結んで正しい人の魂を責め גּדד עַל נֶפֶשׁ צַדִּיק」の直訳は「彼らは正しい人の魂、自己、いのちを軍団を組んで突き進む」となる。人は善よりも、悪により強く結束する。
(†心のデボーション02177)
† 心のデボーション 02178
「なんぢ虐遇を爲し 汝の手の作を打棄て惡き者の謀計を照すことを善としたまふや」 ヨブ10:3 明治元訳聖書
「あなたが人をしいたげ、御手のわざをさげすみ、悪者のはかりごとに光を添えることは良いことでしょうか。」 新改訳聖書
「悪者のはかりごと」
ヨブはなぜ神が悪者のはかりごとを助けるようなことをするのかと問う。たしかに神は「悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、雨を降らせて」くださる。(マタイ5:45)
神は悪者のはかりごとを助けるのではなく、はかりごとが進められるその間にも、太陽を上らせ、恵みの雨を降らせてくださるのである。人にわかるのは、その恵みを受けたのが自分であることだけである。それで人は悪のはかりごとを手放すことができたのである。
(†心のデボーション02178)
† 心のデボーション 02179
「暴虐をもて恃とするなかれ 掠奪ふをもてほこるなかれ 富のましくははる時はこれに心をかくるなかれ」 詩篇62:10 明治元訳聖書
「あなたがたは、しえたげにたよってはならない。かすめ奪うことに、むなしい望みをおいてはならない。富の増し加わるとき、これに心をかけてはならない。」 口語訳聖書
「イソギンチャク」
イソギンチャクは「磯巾着」と書く。「磯の巾着」となるが、イソギンチャクは口の回りに毒のある触手があり、それに獲物が触れると、触手が獲物を掴んで引き込む。それが「巾着の口を閉める形」に似ていることから「磯巾着」の名がある。「巾着」一度口を閉めたら、獲物をとらえて、めったなことでは開かないイソギンチャクかもしれない。その触手には獲物を麻痺させる毒がある。
(†心のデボーション02179)
† 心のデボーション 02180
「執事もまた同じく謹嚴にして、言を二つにせず、大酒せず、恥づべき利をとらず、」 Ⅰテモテ3:8 大正文語訳聖書
「同じように、奉仕者たちも、気品があり、二枚舌を使わず、酒に溺れず、恥ずべき利益を貪らず、」 聖書協会共同訳聖書
「二枚舌」
旧約聖書外典ベン=シラの知恵に「私語者と呼ばるな。舌をもて待伏すな、盜人に恥來り、兩舌の者に惡しき罰來らん。」(ベン=シラの知恵5:14 聖公会訳聖書)とある。「私語者」は「陰口を叩く者」のことで、彼らは「舌をもって待ち伏せする。盗人にいつか報いがくるように、「二枚舌」が放置されることはない。
(†心のデボーション02180)
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