心のデボーション216

デボーション1
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† 心のデボーション 02151

「又キリストの汝らを愛し、我らのために己を馨しき香の献物とし犧牲として、神に献げ給ひし如く、愛の中をあゆめ」 エペソ5:2 大正文語訳聖書

「また、愛のうちに歩みなさい」 新改訳聖書

 「無理難題」

放蕩息子は両親の血と汗の結晶ともいうべき財産で遊女を買い、お金をどぶに捨てるような使い方をする。親が最も嫌うことをする子どもは、これまで、彼自身が「最も嫌なこと」をされてきて、それで今度は自分が親の嫌うことをして、親と対決しようとしているのかもしれない。子どもは、それまでの親の生き方の醜い部分を指摘しながら、それでも無理難題を聞いてくれる親の愛に飢えているのではないだろうか。

(†心のデボーション02151)

† 心のデボーション 02152

「ノアの傳は是なりノアは義人にして其世の完全き者なりきノア神と偕に歩めり」 創世記6:9 明治元訳聖書

「これはノアの歴史である。ノアは正しい人で、彼の世代の中にあって全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。」新改訳聖書

 「儀理者」

昔は百姓の下働きをする下僕を「荒子(あらしこ)」と言った。次男や三男は「家の子」と呼ばれたが下僕同様に扱われた。だが、「あらしこ・家の子なりとて、物をいひつけ、申きかすることにそつともへんせず…いひ出したる事・なすわざの少しもたがはずつとむる」を儀理者と言った。(『百姓伝記』より) 人によってへんせず(偏よらず)」 すこしもたがはないことを「儀」という。ノアは「儀理者」であった。

(†心のデボーション02152)

† 心のデボーション 02153

「そは我よわき時に強ければなり。」 Ⅱコリント12:5 大正文語訳聖書

「なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。」 口語訳聖書

 「平和のときは獅子」

ラテン語格言に「In pace leones, in bello cervi. 平和なときは獅子、戦争では鹿」という。平和なときには勇ましいが、戦いとなるとおとなしい人になる。頼りがいのない人である。

(†心のデボーション02153)

† 心のデボーション 02154

「或祭司たまたま此の途より下り、之を見てかなたを過ぎ往けり。」 ルカ10:31 大正文語訳聖書

「たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。」 新改訳聖書

 「傍観者」

この物語の祭司やレビ人のように、相手が困っている時にも、決して手を出さない人は多い。話を聞いても、すました顔をし、まるで傍観者の態度しかとろうとしない。自分が責任をとらされるような場面はできるだけ避けて通りたいのである。そのくせ自分のことになると、相手かまわず愚痴をこぼしたりもする。こういう人は自分の人生に対しても傍観者である。自分を生きるには困っている人の反対側を通り過ぎないことである。

(†心のデボーション02154)

† 心のデボーション 02155

「第二もまた之にひとし『おのれの如くなんぢの隣を愛すべし』」 マタイ22:39 大正文語訳聖書

「第二もこれに似ている。『隣人をあなた自身のように愛しなさい』」 フランシスコ会訳聖書

 「隣人」

「隣人 πλησίον プれーシオン」は、「近くにいる人、隣接している人」の意味である。あなたに隣接している人はすべて「隣人」である。親しくても、親しくなくても、「あなた自身のように愛しなさい」と主は言われる。

(†心のデボーション02155)

† 心のデボーション 02156

「四十日四十夜斷食して、後に飢ゑたまふ」 マタイ4:2 大正文語訳聖書

「そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた」 新改訳聖書

 「四十日四十夜」

「四十日四十夜」は、人から離れ、孤独に過ごす期間である。孤独に耐えよ。決して孤独ではないと知るまで。

孤独の中でしか、孤独でない自分を見つけることはできない。

(†心のデボーション02156)

† 心のデボーション 02157

「われ説いだして胸を安んぜんとす われ口を啓きて答へん」 ヨブ記32:20 明治元訳聖書

「私は話して、気分を晴らしたい。唇を開いて答えたい。」 新改訳聖書

 「ふさぎの虫」

キルケゴールは「ふさぎの虫」を「深い友人」と呼び、「喜びの真っ只中でもぼくを呼び出し、彼女を愛することになんの不思議があろう」という。(キルケゴール『あれかこれか』より) 気分が晴れないのは身体の中に「塞ぎの虫」という一匹の虫がいて気分を塞ぐからだという。キルケゴールにとりついたふさぎの虫はよほど大物であったが、それが彼を偉大な人に育てたことは間違いない。

(†心のデボーション02157)

† 心のデボーション 02158

「また立ちて祈るとき、人を怨む事あらば免せ、これは天に在す汝らの父の、汝らの過失を免し給はん爲なり」 マルコ11:25 大正文語訳聖書

「また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる」 新共同訳聖書

「負けのサイン」

オオカミが仲間と闘うにはルールがあるという。一方が負けを認めると相手に自分の喉笛を見せる。どんなに激しい闘いも、それで終わる。オオカミは相手から喉笛を向けられると、攻撃したくてもできないようにプログラムされているからなのだそうである。神は人にそのプログラムをされなかったようだ。そこで私たちは負けのサインの出し方、出されたサインの読み方を学ばなければならないのである。

(†心のデボーション02158)

† 心のデボーション 02159

「良き地に播かれしとは、御言をききて悟り、實を結びて、あるひは百倍、あるひは六十倍、あるひは三十倍

に至るものなり」 マタイ13:23 大正文語訳聖書

「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである」 新共同訳聖書

 「不正の畝に種を蒔くな」

旧約聖書外典ベン=シラの知恵に「不正の畝に種を蒔くな。/そうすれば、それを七倍刈り取ることはない。」とある。(ベン=シラの知恵7: 3 聖書協会共同訳聖書) 「不正の畝に種を蒔く」 は、日本でも「友百姓の田畠の畔をかすめず」と教えられている。「不正の畝に種を蒔くようなことをしなければ、7倍の刈入れがもたらされる。

(†心のデボーション02159)

† 心のデボーション 02160

「汝らは日と月と季節と年とを守る。」 ガラテヤ4:10 大正文語訳聖書

「あなたがたは、日や月や季節や年などを守っている。」 口語訳聖書

 「十六夜」

陰暦16日の月を「十六夜(いざよい)」という。「いざよい」の動詞「いざよう」は進もうとして進まない、ためらいの意味から、16日の月が15日の満月よりも遅く、ためらいがちに出るさまを言う。日本人の名月をおしみ楽しむことばである。

(†心のデボーション02160)

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