心のデボーション215

デボーション1
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† 心のデボーション 02141

「汝ら怒るとも罪を犯すな、憤恚を日の入るまで續くな。」 エペソ4:26 大正文語訳聖書

「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。」 新改訳聖書

 「夫婦喧嘩」

夫婦喧嘩する時は、分別もへったくれもない。精一杯意地を張って、相手と渡り合うがよい。それで怒りが放出できるなら、夫婦喧嘩も悪くないのではないか。むしろ、感情のぶつかり合いを避けての分別臭い喧嘩の方が身にこたえる。分別のあるなしにかかわらず、夫婦喧嘩では、憤ったままで一日を終わらせないことだ。「おやすみ」を言えない気持ちのままベットに入ってはいけない。

(†心のデボーション02141)

† 心のデボーション 02142

「坩堝によりて銀をためし鑢によりて金をためし その讃らるる所によりて人をためす」 箴言27:21 明治元訳聖書

「銀の精錬にはるつぼ、金には炉。/人は賛美する口によって精錬される。」 聖書協会共同訳聖書

 「干戈(かんか)の元で」

ラテン語の格言に「Inter arma silent Musae. 干戈(かんか)の元でムーサ(芸術の女神)たちは沈黙する」とある。「干戈(かんか)」は盾と矛のことで武器を交えること。戦争の争いの中では芸術の女神は沈黙する。平和の中でこそ芸術は花開く。しかし、干戈(かんか)の元でも絵筆や楽器を手放さない芸術家もいた。彼らことが真の芸術家であろう。

(†心のデボーション02142)

† 心のデボーション 02143

「なんぢの途をヱホバにゆだねよ 彼によりたのまば之をなしとげ」 詩篇37:5 明治元訳聖書

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」 新改訳聖書

 「人の理解」

自分を理解してくれない人が一人いるからといって、すべての人から拒否されたと思うべきではない。理解してくれない人の理解を変えることは、座り込んで反芻している牛を無理に立ちあがらせようとするようなもので、不可能に近い。牛が反芻を終えて自分で立ちあがるのを待てばよい。

詩篇37:5の「あなたの道 דֶּרֶךְ」には「旅、習わし」の意味もある。あなたという存在に含まれるものを丸ごと主に委ねるがよい。

(†心のデボーション02143)

† 心のデボーション 02144

「金を愛することなく、有てるものを以て足れりとせよ。主みづから『われ更に汝を去らず、汝を捨てじ』と言ひ給ひたればなり。」 ヘブル13:5 大正文語訳聖書

「金銭を愛することをしないで、自分の持っているもので満足しなさい。主は、「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と言われた。」 口語訳聖書

 「五百円硬貨」

実験で、紙に一円、五円、五十円、百円、五百円硬貨の大きさを実物を見ないで描く。実物より大きく描く人は、それだけ金銭への執着が高いという。一般に貧しい人は輪を大きくする傾向があると知られている。しかし、貧しさは実際の貧しさよりも、その人の自覚のしかたによる。つまり、輪の大きさとサイフは必ずしも一致しないのである。面白いことのわかる実験ではある。

(†心のデボーション02144)

† 心のデボーション 02145

「愚なる者はただちに怒をあらはし 智きものは恥をつつむ」 箴言12:16 明治元訳聖書

「愚か者は自分の怒りをすぐ表す。賢い人は辱めを気に留めない。」 新改訳聖書

 「身を滅ぼす激情」

旧約外典ベン=シラの知恵には「激情は、これを抱く者を滅ぼし/敵の物笑いの種にする。」とある。(ベン=シラの知恵6:4 聖書協会共同訳聖書) 日本聖公会訳は「激情」を「悪しき魂」と訳す。激情に身を滅ぼされた人は多い。「悪しき魂」に動かされたとしか思えない。

「怒り כַּעַס」は「いらだち,悲嘆」の意味で、「身を滅ぼす激情」は「悲嘆」からも生じる。

(†心のデボーション02145)

† 心のデボーション 02146

「ここにイエス御靈によりて荒野に導かれ給ふ、惡魔に試みられんとするなり」 マタイ4:1 大正文語訳聖書

「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」 新共同訳聖書

 「血の中傷」

ユダヤ人に対してなされた「血の中傷」と呼ばれる多くの忌まわしい事件がある。ユダヤ人が密かにキリスト教徒の子どもを殺し、その血を過越しの祭りのパンに混ぜたという噂に由来するもので、ユダヤ人への復讐の口実にされた。「血の中傷」がおこなわれ、1171年にはフランスの町ブロアで多くのユダヤ人が閉じ込められた建物が燃やされ、殺害された。歴史に残された「血の中傷」は夥しい数にのぼる。

日本では、1923年(大正12年)9月1日、関東大震災の際に、朝鮮人の集団が震災に乗じて婦女暴行、略奪を行っているという流言飛語が広がり、関東一円で大規模な虐殺、暴行事件が発生している。船橋で23人、神保原で86人、本庄で16人が殺害され、路上に放置された。船橋、神保原、本庄事件は全体の一部であり、6000人の犠牲者が出たとの記録が残されている。(被害者の人数については異説もあり、正確に確定することは現在もできない) この事件は日本におこった「血の中傷」であった。

「血の中傷」は「偽りの中傷」であり、それをばらまくのは「悪魔」である。しかし、それを「悪魔の仕業」とすることで人の罪が消えるものではない。「血の中傷」に動かされ、いわれなき復讐を実行するのは人間であり、犠牲となったのは罪なき民であった。私も含め、それに加担しなかった日本人はいない。

(†心のデボーション02146)

† 心のデボーション 02147

「なんぢ眞實をこころの衷にまでのぞみ わが隠れたるところに智慧をしらしめ給はん」 詩篇51:6 明治元訳聖書

「見よ、あなたは真実を心のうちに求められます。それゆえ、わたしの隠れた心に知恵を教えてください。」 口語訳聖書

 「いささかの苦労」

旧約聖書外典ベン=シラの知恵に「耕す者や種を蒔く者のように、知恵に向かい/その豊かな実りを待ち望め。/確かに、知恵のための仕事には/いささか苦労するが/じきに、お前はその実を味わうことになる。」とある。(ベン=シラの知恵6:19 聖書協会共同訳聖書) 知恵の為の仕事には種まきに似た「いささかの苦労」があるが、じきに「その実を味わう」喜びが来る。「知恵を育て、忍耐強く良い実りを待つことだ。「隠れた心(内なる心)」に知恵の種を蒔け。

(†心のデボーション02147)

† 心のデボーション 02148

「彼見て天幕の入口より趨(はし)り行て之を迎へ」 創世記18:2 明治元訳聖書

「彼は、見るなり、彼らを迎えるために天幕の入口から走って行き、地にひれ伏して礼をした」 新改訳聖書

 「御馳走」

日の暑いころ、天幕を訪れた三人の旅人のために、九十九歳の老いたアブラハムが走る。八十九歳になった妻サラに、急いで小麦粉をこねてパン菓子を作らせ、牛のところに走り、子牛を選んで若者に料理させる。材料を求めて「声をあげ、ほえ叫び、東西を駆け走る」のを、「御馳走」という。神は時々、見知らぬ旅人の姿をして私の前に立たれる。身を重くしていては、その訪れを見逃してしまう。

(†心のデボーション02148)

† 心のデボーション 02149

「ただしき神は人のこころと腎とをさぐり知たまふ」 詩篇7:9 明治元訳聖書

「義なる神よ、あなたは人の心と思いとを調べられます。」 口語訳聖書

 「遺憾に思う」

思うようにいかず、心残りであることを「遺憾に思う」という。「遺憾」の「憾」は「うらみ、残念な思い」で、「憾(かん)を遺(のこ)す」は残念な思いを心に抱きとめるの意味の漢語である。「遺憾」なことは、ただ「抱く」だけでは恨みになるが、心に深く受け止めれば「遺す」価値あるものとなる。

(†心のデボーション02149)

† 心のデボーション 02150

「蔬菜をくらひて互に愛するは肥たる牛を食ひて互に恨むるに愈る」 箴言15:17

「野菜を食べて互に愛するのは、肥えた牛を食べて互に憎むのにまさる。」 口語訳聖書

 「蔬菜(そさい)を食べて」

「蔬菜(そさい)」はもともと栽培された野菜や食べられる野草を含む広い意味での野菜をさすことばである。肥えた牛の食卓にくらべて貧しい食卓である。貧しい食卓でも互いに愛する家族は、豪華な食卓を囲みながら互いに恨みを抱く家族にまさる。箴言17:1には「平穏であって、ひとかたまりのかわいたパンのあるのは、争いがあって、食物の豊かな家にまさる。」(口語訳聖書)とある。

(†心のデボーション02150)

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