心のデボーション214

デボーション1
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† 心のデボーション 02131

「されど主に在りては、女は男に由らざるなく、男は女に由らざるなし」 1コリント11:11 大正文語訳聖書

「女は男を離れてあるものではなく、男も女を離れてあるものではありません」 新改訳聖書

 「オチンチン」

三歳から四歳頃の子どもは、お互いにパンツの中をのぞき込んだりして、性の違いに気づく。女の子は自分が男の子のようなりっぱなオチンチンがないことで、何だか劣っているような気分になるようだ。そういう女の子には「あなたは大きくなったらお母さんになって赤ちゃんを産めるように、神様がつくられたのよ」と話してあげるとよい。女性の自らの存在をめぐる闘いはすでに始まっているのである。

(†心のデボーション02131)

† 心のデボーション 02132

「惰者よ蟻にゆき其爲すところを觀て智慧をえよ」 箴言6:6 明治元訳聖書

「怠け者よ、蟻の所に行き、そのすることを見て、知恵ある者になれ」 フランシスコ会訳聖書

 「怠け者」

ラテン語の格言に、「Ignavis semper feriae sunt. 怠け者にとっては毎日が祭日(休日)」とある。Feriae は祭日とも休日とも訳すことができる。箴言は怠け者に「蟻の所に行って、そのすることを見て、知恵を学べ」というが、蟻の所に行って、蟻から学ぶのは怠け者のすることではない。怠け者にとっていつもが休日なのだ。

(†心のデボーション02132)

† 心のデボーション 02133

「賢者の智慧はおのれの道を暁るにあり 愚なる者の痴は欺くにあり」 箴言14:8 明治元訳聖書

「賢い人の知恵は道を見極める。/愚かな者の無知は欺きを見極められない。」 聖書協会共同訳聖書

 「賢人の条件」

ユダヤの賢人になる7つの条件とは、「1.自分より賢い人がいるときは話さない 2.人の話の腰を折らない 3.答えるときは焦らない 4.的を得た質問をし、筋道だった答えをする 5.まずやるべき事からやり、後回し出来る事は最後にする 6.無知を知り、無知を認める 7.真実を認める」というものである。どれも難しいが、私としては5番目に取り組んでいるが、実現はしていない。

(†心のデボーション02133)

† 心のデボーション 02134

「ゼベダイの子ヤコブ、その兄弟ヨハネ、此の二人にボアネルゲ、即ち雷霆の子といふ名をつけ給ふ。」 マルコ3:17 明治元訳聖書

「またゼベダイの子ヤコブと、ヤコブの兄弟ヨハネ、彼らにはボアネルゲ、すなわち、雷の子という名をつけられた。」 口語訳聖書

 「雷の子」

イエスの弟子ヨハネは、普段は目立たず、控えめに行動する人だったが、他人に厳しいところがあり、ひとたび激情に流されると抑えがきかない人だった。それで「雷の子」と呼ばれたのである。しかし、ヨハネはイエスとともに行動するうちに、人に優しくなっていったのではないだろうか。そうでなければ、あれほどたくさんの愛についてのすすめを残せるはずがない。自分の欠点が原因で失敗することを恐れることはない。その人自身の本当の輝きは、欠点の中から生まれてくるものだからである。

(†心のデボーション02134)

† 心のデボーション 02135

「この人は證のために來れり、光に就きて證をなし、また凡ての人の彼によりて信ぜん爲なり。」 ヨハネ1:7 大正文語訳聖書

「この人はあかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。」 口語訳聖書

 「よきおとずれ」

「この人」はバプテスマのヨハネである。バプテスマのヨハネが派遣されることによってイエスの宣教は始まる。神の福音が到達する前に、福音の先触れがある。「よきおとずれ」は到達する前に、すでに始まっている。

(†心のデボーション02135)

† 心のデボーション 02136

「ここにイエス御靈によりて荒野に導かれ給ふ、惡魔に試みられんとするなり」 マタイ4:1 大正文語訳聖書

「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」 新共同訳聖書

 「こころみ」

「こころみ」には「試み」と、「こころ+見る」から「心を見る」という語意がある。すべての「こころみ」が試すのは「こころの深く」である。

(†心のデボーション02136)

† 心のデボーション 02137

「幸福なるかな、悲しむ者。その人は慰められん」 マタイ5:4 大正文語訳聖書

「悲しむ人は幸いである、その人は慰められるであろう」 フランシスコ会訳聖書

 「心を何かに噛まれている人」

藤井武は「悲しむ者」とは「心を何かに噛まれてゐる人、その痛みのために呻いてゐる人、嘆きのために疲れてゐる人」という。(藤井武『信仰生活』) 悲しみを知る人でなければ慰めを知ることはできない。

(†心のデボーション02137)

† 心のデボーション 02138

「ねがはくは我によこしまなる途のありやなしやを見て われを永遠のみちに導きたまへ」 詩篇139:24 明治元訳聖書

「私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いて下さい。」 新改訳聖書

 「傷ついた道」

涙を流しながら、「傷ついた道」を歩いたことのない人はいない。しかし、その道が、「とこしえの道」につながっていることを知っていただろうか。傷つかないように避けてばかりいては、そこに導かれることはない。神はそこで人を「守り」、あらかじめ「備えられた所」に人を導かれる。涙を拭いて、ずんずん歩く。立ち止まりさえしなければ、涙は乾いてしまう。

(†心のデボーション02138)

† 心のデボーション 02139

「たとひ虚偽をもてその恨をかくすとも その惡は會集の中に顯はる」 箴言26:26 明治元訳聖書

「たとい偽りをもってその憎しみをかくしても、彼の悪は会衆の中に現れる。」 口語訳聖書

 「いんちき」

いんちきを「いかさま」というが、「いかさま」は「如何」と「様」で「どのように」の意味であったものが、転じて「どうみてもそうだ」から「いかにも本物」を意味するようになったという。異説には烏賊の墨「いかすみ」からきたもので、烏賊墨で書いた証文は時間と共に消えるところからだという。この方が面白いが、「いかさま」の匂いがないわけでもない。いんちきは、いかに隠してもやがて現れてしまうものだ。

(†心のデボーション02139)

† 心のデボーション 02140

「而してマリヤは凡て此等のことを心に留めて思ひ囘せり。」 ルカ2:19 大正文語訳聖書

「しかし、マリヤはこれらの事をことごとく心に留めて、思いめぐらしていた」 口語訳聖書

 「マリヤの信仰」

マリヤはわが身におきた出来事のすべてを、「心に留めて、思いめぐらしていた συνετήρει τὰ ῥήματα ταῦτα συμβάλλουσα ἐν τῇ καρδίᾳ」。「心に留て συντηρέω」は「心に長く、しっかりと受け止める」の意味であり、「思いめぐらす συμβάλλω」は元来「共に投げる」意味から「ことばを共に投げる」を意味する。マリヤは天使の告げたことばについて胸のなかで繰り返し、思案し、思いを巡らし、熟考することをしていた。それがマリヤの信仰だった。

(†心のデボーション02140)

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