心のデボーション213

デボーション1
Generic selectors
完全一致
タイトルから
記事本文から
Post Type Selectors
Filter by Categories

† 心のデボーション 02121

「されど我名をおそるる汝らには義の日いでて昇らん その翼には醫す能をそなへん 汝らは牢よりいでし犢の如く躍跳ん」 マラキ4:2 明治元訳聖書詩篇

「しかしわが名を恐れるあなたがたには、義の太陽がのぼり、その翼には、いやす力を備えている。あなたがたは牛舎から出る子牛のように外に出て、とびはねる。」 口語訳聖書

 「み翼の影」

人生には、存在の底から苦しみ悲しみが出てくる瞬間がある。押さえることも、耐えることもかなわない、激しい感情に襲われる。その時は、赤ん坊のように声をあげて泣くことである。自分を責めたり、耐えたりしないで、ただ、声をあげて泣いたらよい。そして、泣きつかれたら、母鳥の翼に抱かれるヒナのように、神の安息に身をゆだね、そのまま寝てしまう。神のみ翼には癒しがある。

(†心のデボーション02121)

† 心のデボーション 02122

「神は傷け又裹み 撃ていため又その手をもて善醫したまふ」 ヨブ5:18 明治元訳聖書詩篇

「神は傷つけるが、それを包み、打ち砕くが、その手でいやしてくださるからだ。」 新改訳聖書

 「胸の奥で静かに」

「Tacitum vivit sub pectore vulnus. 傷は静かに胸の下で生きる」。(ウェルギリウスの『アエネーイス』)胸の奥に静かに息づいているような傷はいつまでも続くものだ。胸の下で生き続けるものは、無理に外に出さずに、神が癒してくださるままに委ねるがよいかもしれない。

(†心のデボーション02122)

† 心のデボーション 02123

「我心を盡して智慧を知んとし狂妄と愚癡を知んとしたりしが 是も亦風を捕ふるがごとくなるを暁れり」 伝道

1:17 明治元訳聖書

「私は、一心に知恵と知識を、狂気と愚かさを知ろうとした。それもまた風を追うようなものであることを知った。」 新改訳聖書

 「知恵と知識と狂気と愚かさ」

「愚か」になれるのが賢い人である。利益のために愚かさを見せるのではなく、利益を損なっても愚かと知りつつ愚かを生きるのである。伝道者は「知恵と知識を、狂気と愚かさ」を知ろうとした。それは「風を追うようなもの」にすぎず、「知恵が多くなれば悩みも多くなる」ばかりであった。(伝道1:18)しかし、いかに空しくても「知恵と知識を、狂気と愚かさ」を知ろうすることを止めてはならないのではないか。

(†心のデボーション02123)

† 心のデボーション 02124

「彼はあしき音信によりて畏れず その心ヱホバに依賴みてさだまれり」 詩篇112:7 明治元訳聖書

「彼は悪いおとずれを恐れず、その心は主に信頼してゆるがない。」 口語訳聖書

 「悪い知らせ」

悪い知らせは受け取りを拒否できない郵便物に似ている。「主を恐れる人」にも確実に届く。しかし、発信人をうらんだりしないことだ。まして配達人にあたるのは筋違いというものである。「主を恐れる」この人は、悪い知らせを「惜しみなく与える」合図と受け取る。(詩篇112:9)「悪い知らせ」は、そういう受け取り人に「いらだち、歯ぎしりして、溶け去る」のである。(詩篇119:10)

(†心のデボーション02124)

† 心のデボーション 02125

「幸福なるかな、心の貧しき者。天國はその人のものなり」マタイ5:3 大正文語訳聖書

「自分の貧しさを知る人は幸いである。天の国はその人のものだからである」 フランシスコ会訳聖書

 「霊的無産者」

藤井武は「心の貧しい人」とは「霊的無産者(霊的に何も生み出さない人)」であるという。(藤井武『信仰生活』)「心の富、心の財産というものを有たない人」、「自分の胸の中に、誇るべき何ものをも見出さない人」である。天国はそういう人のものである。

(†心のデボーション02125)

† 心のデボーション 02126

「ここにイエス御靈によりて荒野に導かれ給ふ、惡魔に試みられんとするなり」 マタイ4:1 大正文語訳聖書

「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」 新共同訳聖書

 「悪魔」

「悪魔 διάβολος ディアボろス」にとって、真実の言葉に「偽り」を隠すほどたやすいことはない。英語で「誘惑 seduction」は、ラテン語「seducer わきに導く」からきた言葉である。悪魔は真実を「わきに導く」者である。

(†心のデボーション02126)

† 心のデボーション 02127

「また恥づべき言・愚なる話・戯言を言ふな、これ宜しからぬ事なり、寧ろ感謝せよ。」 エペソ5:4 大正文語訳聖書

「恥ずべきこと、愚かな話、下品な冗談もふさわしくありません。むしろ、感謝の言葉を口にしなさい。」 聖書協会共同訳聖書

 「いかがわしい人」

「いかがわしい」という日本語は、昔、疑いを示す「いか」という語があり、そこから「いかに」、「いかにか」、「いかが」が生まれ、副詞「いかが」の形容詞としての「いかがし」となった。「いかがし」は見苦しい、いかがわしいの意味で、「いかがはし」が生まれる。「下品な冗談を言う人」は、いかがわしいと思って差し支えない。

(†心のデボーション02127)

† 心のデボーション 02128

「もし汝に物あらば汝の鄰に向ひ 去て復來れ明日われ汝に予へんといふなかれ」 箴言3:28 明治元訳聖書

「お前が物を持っている時に、隣人に、『帰れ、出直してこい。明日あげよう』と言うな」 フランシスコ会訳聖書

 「いつか又」

テレビのレポーターが「いつか又、来ますからね」というと、老婆が「いつかとおばけには会ったことがねえな」と笑う。今、渡せるものがあるのに「今日はダメ、明日、あげよう」という人は、明日になれば別の言い訳を用意している。「今」を先に延ばさないのが「友」であろう。「いつか又」は、その気もないのに使うと人を傷つけることがある。後の日にふくみを残したいときだけ使いたい。しかし、その区別は相手に伝わりにくいものである。

(†心のデボーション02128)

† 心のデボーション 02129

「ヱホバ神土の塵を以て人を造り生氣を其鼻に嘘入たまへり人即ち生靈となりぬ」 創世記2:7 明治元訳聖書

「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった」 新改訳聖書

 「縄文の声」

私の机には畑で拾った縄文時代の石斧が二つある。色も形も違う、石斧というには未完成の鈍器とも言える石である。握ってみると、同じように握って仕事をしていたに違いない縄文の人に会えるような気がする。同時に数千年を経て自分に来た二つの石斧に、「運命の感覚」が呼び覚まされるのである。自分の内に蘇ろうとする「いのちの声」だろうか。方向を失おうとする現代に呼びかける声かもしれない。

(†心のデボーション02129)

† 心のデボーション 02130

「凡てかれにゆく者は歸らず また生命の途に達らざるなり」 箴言2:19 明治元訳聖書

「彼女のもとに行く者はだれも戻って来ない。命の道に帰りつくことはできない。」 新共同訳聖書

 「ポルノグラフィー」

箴言が警告する「彼女」は「ことばのなめらかな、見知らぬ女」で、彼女は「娼婦」である。男は娼婦のもとに行ってはならない。それは神の創られた女性を汚す行為である。女は娼婦になってはならない。それは神の創られた自分を汚す行為である。「ポルノグラフィー Pornography」は「だれも戻る道のない不毛な道である。隠れてその道を行く者は「いのちの道」に帰らない。「娼婦」は神から人を離れさせる「偶像」の象徴である。

(†心のデボーション02130)

コメント