† 心のデボーション 02111
「わが助われの中に無にあらずや 救拯我より逐はなされしにあらずや」 ヨブ6:13 明治元訳聖書
「まことに、わたしのうちに助けはなく、/救われる望みは、わたしから追いやられた。」 口語訳聖書
「助け」
自分には何の助けもないという思いがヨブを苦しめた。人に頼らないで生きるのが自立である。しかし、どんなに苦しくても、決して助けを受けないというのも一つの高慢であろう。本当に自立した人には、他人に「助けて」といえる素直さがある。その時には、助けた人もそれによって助けられるという経験をしていることも少なくない。「何の助けもない」というのは、自分から目を閉じて見ようとしないからかもしれない。。
(†心のデボーション02111)
† 心のデボーション 02112
「これに我法度を定め關および門を設けて 曰く此までは來るべし此を越べからず 汝の高浪ここに止まるべしと」 ヨブ38:10~11 明治元訳聖書
「これがために境を定め、関および戸を設けて、言った、『ここまで来てもよい、越えてはならぬ、おまえの高波はここにとどまるのだ』と。」 口語訳聖書
「自然は飛躍せず」
「Natura non facit saltum. 自然は飛躍せず」はスウェーデンの植物学者リンネの言葉である。自然の営みには一定の法則があり、軌道を逸することがない。神は海と陸に境を定め、波がそれを超えないように関とされた。それを超えて飛躍したがるのは「心の高波」である。
(†心のデボーション02112)
† 心のデボーション 02113
「斯神其人を逐出しエデンの園の東にケルビムと自から旋轉る焔の劍を置て生命の樹の途を保守りたまふ」 創世記3:24 明治元訳聖書
「神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた。」 口語訳聖書
「世界樹」
樹は種の落ちたところに芽生え、一生をそこですごす。たとえ、その地が生育に適さないとしてもそれを受け入れ、ただ天を目指して枝を張る。雪が降れば埋もれるままにまかせるが、わずかの熱を発して根元を温め、凍結を防ぐ。人の心には、天と地を支え、その根は地下世界にとどくという世界樹が生えているのだろか。
(†心のデボーション02113)
† 心のデボーション 02114
「愛する者よ、われら互に相愛すべし。愛は神より出づ、おほよそ愛ある者は、神より生れ神を知るなり。」 Ⅰヨハネ4:7 大正文語訳聖書
「愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている。」 口語訳聖書
「好きでなくても」
愛さなければと思いながら、感情的に愛せなくなっている自分に気づくことがある。ヨハネは感情的に愛せない気持ちはそのままにして「互わたしたちは互に愛し合おうではないか」と語る。感情を別にして「尊ぶ、重んじる」ことは「愛」である。好きでなくても愛することはできる。そうしているうちに、好きという感情が生まれてくるかもしれない。
(†心のデボーション02114)
† 心のデボーション 02115
「彼は人をして夜の中に歌を歌ふに至らしめ」 ヨブ記35:10 明治元訳聖書
「夜、歌を与える方」 新共同訳聖書
「夜、歌を」
神は苦しみの夜に歌を与えられる。「歌」は「力」とも訳すことができる。魂に力を与えられ、人は歌うのである。
すべてを神に委ねて寝るがよい。寝ている間に、神は魂に力をあたえ、朝には賛美の歌を歌わせてくださる。
(†心のデボーション02115)
† 心のデボーション 02116
「ここにイエス御靈によりて荒野に導かれ給ふ、惡魔に試みられんとするなり」 マタイ4:1 大正文語訳聖書
「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」 新共同訳聖書
「ヴィッテンベルクのルター」
ルターはヴィッテンベルクのアイゼナッツ近くのヴァルトブルク城(ワーグナーの歌劇「タンホイザー」のモデルになった所)でエラスムス版のギリシャ語テキストを使ってドイツ語聖書の翻訳を完成させた。ルターはわずか3か月でこの仕事を完遂したが、その間しばしばサタンがあらわれ、さまざまな妨害をしたため、サタンに向かってインク壺をなげつけたという。仕事場の粗末な小さな小部屋の壁には最近までルターの作った「インクの染み」が残っていたが、見学者によって削り取られ、今はない。
サタンは翻訳の途中で、ルターの好物のヘーゼルナッツを梁の上で押しつぶして見せたりしたという。ルターはインク壺を投げてから「お前なのか。それではしかたがない」と言い、床に就いたという。
(†心のデボーション02116)
† 心のデボーション 02117
「たばかりの舌よなんぢはすべての物をくひほろぼす言をこのむ」 詩篇52:4 明治元訳聖書
「あなたの舌は破滅を思いたくらむ。/それは刃物のように鋭く、人を欺く。」 聖書協会共同訳聖書
「死んだふり」
「いか」は漢字で「烏賊」と書くが、中国では、海の浅い所に浮かんでいるいかを、カラスが死んでいるものと捕らえようとすると、いかがカラスを襲って捕まえるという言い伝えからきたという説がある。死んだふりをして危機を逃れるのは弱いものの知恵であるが、死んだふりをして近づくものを捕らえるのは悪知恵である。死んだふりをするものには安易に近づかないことだ・
(†心のデボーション02117)
† 心のデボーション 02118
「希望は恥を來らせず、我らに賜ひたる聖靈によりて神の愛われらの心に注げばなり。」 ロマ5:5 大正文語訳聖書
「この希望が失望に終わることはありません。私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」 聖書協会共同訳聖書
「愛し抜く」
相手に失望する時、きっと、自分にも失望している。人をとことん愛そうと心が定まれば、この落胆から抜けることもできる。愛を見失ったところから失望がはじまる。一人の人を愛し抜くことで、希望を取り戻し、自分を回復するのである。大切なことは神の愛が心に流れ込んでいることである。失望はその流れに乗せて、流してしまえばよい。
(†心のデボーション02118)
† 心のデボーション 02119
「光の結ぶ實はもろもろの善と正義と誠實となり」 エペソ5:9 大正文語訳聖書
「あらゆる善意と正義と真実のうちに、光は実を結ぶのです。」 聖書協会共同訳聖書
「善魔」
「善魔」という言葉は、岸田國士の小説「善魔」に由来する。善を貫くために魔の心を必要とするかを問う小説である。「善魔」は映画化され、俳優に抜擢された佐藤 政雄は役名三國連太郎をそのまま芸名にしたものである。犬養道子さんは別の所で、「善魔は悪魔よりも始末がわるい」と言っている。善の意識が悪の自覚を覆ってしまうような善意は多くの人を不幸にする。「善意」は「正義と真実」を裏切らない。
(†心のデボーション02119)
† 心のデボーション 02120
「公平の權衡と天秤とはヱホバのものなり 嚢にある法馬もことごとく彼の造りしものなり」 箴言16:11 明治元訳聖書
「公正な天秤、公正な秤は主のもの。袋のおもり石も主の造られたもの」 新共同訳聖書
「主の天秤」
自分をはかる天秤は「主のもの」である。人はことさらに自分を軽くはかりたがる。主の天秤で計られる「私」は、想像以上に重い。自分を現実よりも重くはかるのも、逆に軽くはかるのも偽りである。「主の天秤」は御言葉のなかにある。
(†心のデボーション02120)
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