† 心のデボーション 02101
「心に喜樂あれば顔色よろこばし 心に憂苦あれば氣ふさぐ」 箴言15:13 明治元訳聖書
「心に喜びがあれば顔色を良くする。心に憂いがあれば気はふさぶ」 新改訳聖書
「気のふさぎ」
悩みという気分にとらわれると、幸せでさえも悩みの原因になる。今は幸せだが、この幸せがいつなくなるかと心はふさぐのである。そして、自分はつまらないことで悩んでいるなと考えて、それで又、落ち込みもする。人は行きづまったから悩むのではなく、悩むから行きづまるのである。気がふさぐ時は、そんな自分を情けないと思うより、そういう自分はほっておけばよい。気がふさぐからといって、どうということもないと放置しておくと、気分はいつか納まってしまうものである。
(†心のデボーション02101)
† 心のデボーション 02102
「又わが口より眞理のことばをことごとく除き給ふなかれ」 詩篇119:43 明治元訳聖書
「真実の言葉を私の口から奪わないでください。」 聖書協会共同訳聖書
「真実の言葉」
「Veritatis simplex oratio est. 真理のことばは単純である」(セネカ『倫理書簡集』) ラテン語「単純な simplex」には「自然な、素朴な、率直な」の意味があり、「飾り気がない」を意味する。誠実な人のことばは飾り気がなく、それでいて説得力が強い。真実は多くのことばを必要としない。
(†心のデボーション02102)
† 心のデボーション 02103
「ヱホバはわが光わが救なり われ誰をかおそれん ヱホバはわが生命のちからなり わが懼るべきものはたれぞや」 詩篇27:1 明治元訳聖書
「主はわたしの光、わたしの救だ、わたしはだれを恐れよう。主はわたしの命のとりでだ。わたしはだれをおじ恐れよう」 口語訳聖書
「主はわたしの光」
人は光そのものを見ることはできない。人が見ているのは光が照らすものによって光の存在を知るのである。この光の物理的な性質は、「神の光」に及ぶ。光が心の暗黒を照らし出すとき、はじめて、人は神の光を知るのである。魂の暗黒の深さを知る人は、神の光の輝きを知るのである。魂の暗黒のみを知って神の光を知らない人は、まだ自分に届いていない。
(†心のデボーション02103)
† 心のデボーション 02104
「子たる者よ、なんぢら主にありて兩親に順へ、これ正しき事なり。」 エペソ6:1 大正文語訳聖書
「子たる者よ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことである。」 口語訳聖書
「母の愛」
子どもが銃で狙われたら、アメリカの母親は子どもの前にたちはだかり、日本の母親は子どもを抱えて銃に自分の背を向けるそうである。いずれにしても、災いから子どもを守ろうとする母親の姿である。しかし、もし、母親が自分をかばってくれると、銃の前に立つことを恐れない子どもにはどうすべきだろうか。母親は銃の前に立ちはだかるだけでなく、銃の怖さを子どもに身をもって教える必要もある。やがて、子どもたちはわが子を胸に抱く親になる。
(†心のデボーション02104)
† 心のデボーション 02105
「そこで、人々が集まってくると、ピラトは尋ねた、『誰を釈放してもらいたいのか。バラバ・イエスか、それとも、メシアと呼ばれるイエスか』」 マタイ27:17 大正文語訳聖書
「そこで、人々が集まってくると、ピラトは尋ねた、『誰を釈放してもらいたいのか。バラバ・イエスか、それとも、メシアと呼ばれるイエスか』」 フランシスコ会訳聖書
「イエスかバラバか」
ピラトは群衆に「誰を釈放してもらいたいのか。バラバ・イエスか、それとも、メシアと呼ばれるイエスか」と問いかけた。これは恐ろしい選択である。選ばれるべき者が選ぶ側に置かれる。人はそれによって自らを選ぶのである。群衆はイエスではなくバラバを選択した。
(†心のデボーション02105)
† 心のデボーション 02106
「ここにイエス御靈によりて荒野に導かれ給ふ、惡魔に試みられんとするなり」 マタイ4:1 大正文語訳聖書
「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」 新共同訳聖書
「霊」
イエスを悪魔の試みに導いたのは「霊 πνεῦμα プネウマ」であった。「霊 πνεῦμα プネウマ」は「悪の存在」を深く知っている。
(†心のデボーション02106)
† 心のデボーション 02107
「かならず我は人に偏らず 人に諂はじ」 ヨブ32:21 明治元訳聖書
「私は誰かを偏り見ようとは思わない。/人にへつらうことはしない。」 聖書協会共同訳聖書
「へつらい」
韓非子に「君主に阿諛する奸臣は、唯々諾々と君主の命令を受け容れてお世辞ばかりを言う。」と言われているという。「唯々(はいはい)」と「諾(引き受ける)ことで、「阿諛(あゆ)」は「おもねりへつらう」の意味である。
ヨブと3人の友人の対話を聞いていたエリフはヨブと不毛の議論を続ける3人に怒って立ち上がる。(ヨブ32章)
人に「阿諛(あゆ)」するだけの会話はどぶに捨てるがよい。
(†心のデボーション02107)
† 心のデボーション 02108
「かれらは劍のごとくおのが舌をとぎ その弓をはり矢をつがへるごとく苦言をはなち」 詩篇64:3 明治元訳聖書
「彼らは その舌を剣のように研ぎ澄まし 苦いことばの矢を放っています。」 新共同訳聖書
「毒矢」
新共同訳、フランシスコ会訳は「苦いことば」を「毒を含んだことば」と訳す。素手でこの「毒矢」を払いおとすなど、もっての外である。毒はわずかの傷からも全身をかけめぐり、神経を麻痺させるだろう。不思議なことに、毒矢の飛びかうところに人は群れたがり、自分も毒矢をつかって応戦しようとすることである。毒矢を射掛けられたら、ひとまず身を隠すことである。詩人は「主に身を避け」、パウロは「信仰の大盾を取れ」とすすめる。
(†心のデボーション02108)
† 心のデボーション 02109
「茲に人あり只獨にして伴侶もなく子もなく兄弟もなし 然るにその勞苦は都て窮なくの目は富に飽ことなし 彼また言ず嗚呼我は誰がために勞するや何とて我は心を樂ませざるやと 是もまた空にして勞力の苦き者なり」 伝道4:8 明治元訳聖書
「一人の男がいた。孤独で、息子も兄弟もない。/彼の労苦に果てはなく、彼の目は富に満足しない。/「誰のために私は労苦し/私自身の幸せを失わなければならないのか。」/これもまた空であり、つらい務めである。」 聖書協会共同訳聖書
「孤独」
伝道者が見ていると、息子も兄弟もいない孤独な男がいた。富は彼の目を楽しませない。苦労すべき息子も兄弟もなく、忍耐すべき家族もいない。男は「息子や兄弟」がいないので孤独なのではない、孤独なので「関わりあう相手」が見えないのだ。「孤独」とは自分の存在を愛することのできる人で、他人の孤独を愛することもできる人のことである。
(†心のデボーション02109)
† 心のデボーション 02110
「神および主イエス・キリストの僕ヤコブ、散り居る十二の族の平安を祈る。」 ヤコブ1:1 大正文語訳聖書
「神と主イエス・キリストとの僕ヤコブから、離散している十二部族の人々へ、あいさつをおくる。」 口語訳聖書
「離散の民」
「離散している十二部族 ταῖς ἐν τῇ διασπορᾷ χαίρειν」は迫害によって外国に遅参したユダヤ人で、「διασπορά
ディアスポラ」と呼ばれる。ギリシャ語「διασποράディアスポラ」は元来、種まきを意味する言葉から来ている。迫害によって散らされることは「蒔かれた種が新しい地に飛び、その地に根ざす」ことを意味した。
(†心のデボーション02110)
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