† 心のデボーション 02091
「ねがはくはヱホバなやみの日になんぢにこたヘヤユブのかみの名なんぢを高にあげ」 詩篇20:1 明治元訳聖書
「が悩みの日にあなたに答え、ヤコブの神のみ名があなたを守られるように。」 口語訳聖書
「苦難の日に」
ほらふき男爵が森の中で底なし沼にはまったとき、男爵は自分で自分のひげをつかみ、えいっと力を入れて沼からわが身を引っ張る。私たちは時々、それが男爵のほら話であることを忘れ、自分で自分のひげをつかむ。しかし、それをおろかと笑ってよいものだろうか。せめて、「苦難の日」をむかえた友のために、「主があなたにお答えになりますように」と祈るのである。
(†心のデボーション02091)
† 心のデボーション 02092
「天が下の萬の事には期あり 萬の事務には時あり」 伝道3:1 明治元訳聖書
「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある」 口語訳聖書
「時の初心」
世阿弥は「初心忘れるべからず」と言った。(世阿弥「花鏡」) 「初心」は芸の未熟な段階であるが、すでにそこに成熟の可能性が含まれている。自己の未熟を知ることが新たな成熟につながるということか。初心は時々にあり、それぞれの初心を捨てないことだ。
(†心のデボーション02092)
† 心のデボーション 02093
「汝ら是日を記念えてヱホバの節期となし世々これを祝ふべし汝等之を常例となして祝ふべし」 出エジプト12:14 明治元訳聖書
「この日は、あなたがたにとって記念となる。あなたがたはその日を主への祭りとして祝い、代々守るべき永遠の掟として、これを祝わなければならない。」 新改訳聖書
「記念」
英語で記念は celebrate で、この語はラテン語 celebrates(祝う)から来ている。ラテン語 celebrates は「多くの人が集まって、耳を傾ける」の意味である。人生には多くの人が集まって、耳を傾けるべき日がある。その経験を心に深く刻む日である。
(†心のデボーション02093)
† 心のデボーション 02094
「たばかりの舌よなんぢはすべての物をくひほろぼす言をこのむ」 詩篇53:4 明治元訳聖書
「欺きの舌よ。おまえはあらゆるごまかしのことばを愛している。」 新改訳聖書
「欺きの舌」
「ごまかしのことば」を愛するのは、自分の心にふれられるのを避けたいからかもしれない。本当の自分にふれる「ことば」には耳をふさぎ、耳触りの良い「ことば」だけを求める。しかし、「ごまかしのことば」で交わされる会話によっては、現状を何一つ変えることができない。「ごまかしのことば」を捨てたいなら、自分をごまかすことをやめ本当に生きようとすることだ。
(†心のデボーション02094)
† 心のデボーション 02095
「また之にかはりて起る者は賤まるる者にして國の尊榮これに歸せざらん然れども彼不意に來り巧言をもて國を獲ん」 ダニエル11:21 明治元訳聖書
「彼に代わって立つ者は軽蔑すべき者で、彼には王国の尊厳は与えられない。彼は不意にやって来て、巧みな言葉を用いて王国を手に入れる。」 新改訳聖書
「人間の尊厳」
アンティオコス四世は「賤まるる者、卑劣な者、軽蔑すべき者」と呼ばれる。彼には「王国の尊厳」が与えられていなかったが「不意にやって来て、巧みな言葉を用いて王国を手に入れた」(ダニエル11:21 新改訳聖書)。人を押しのけて権力を手に入れる。「この王は、思いのままにふるまい、すべての神よりも自分を高め、大いなるものとし、神の神に向かってあきれ果てるようなことを語り、憤りが終わるまで栄える。定められていることが、なされるからである。」(ダニエル11:36 新改訳聖書)。人間の尊厳とは、自らを神のごとき者になることではなく、自らを神としないことを承認する心にある。
(†心のデボーション02095)
† 心のデボーション 02096
「但し人の衷には靈あり 全能者の氣息人に聰明を與ふ」 ヨブ32:8 明治元訳聖書
「 確かに、人の中には霊があり、全能者の息が人に悟りを与える。」 新改訳聖書)
「風」
「風」という漢字の古形は「鳳(おおとり)」で、荘子に「北冥に魚あり その名をこんという こんの大いさ 其の幾千里なるを知らず 化して鳥となるや其の名を鵬という 鵬の背 其の幾千里なると知らず ふるいたちて飛べば その翼は天に垂るる雲のごとし」とある。古代中国の人は「風」を神の羽ばたきと観たのだろう。聖書の「風」は「πνεῦμα プネウマ」は「運動している空気、風」で「(生命力としての、生のエネルギーの根源としての)息」であり、「神の霊、キリストの霊、聖霊」は「風 πνεῦμα プネウマ」が用いられる。
(†心のデボーション02096)
† 心のデボーション 02097
「ヱホバよ願くはわが仇のゆゑになんぢの義をもて我をみちびき なんぢの途をわが前になほくしたまへ」 詩篇5:8 明治元訳聖書
「主よ 私を待ち伏せている者がいますから あなたの義によって私を導いてください。 私の前に あなたの道をまっすぐにしてください。」 新改訳聖書)
「一本の道」
人生には自分が歩いた後にできる一本の道しかない。他にもあると考えるのは無駄であるばかりでなく、これからゆく道を見失うかもしれない。よく見れば後ろにできた一本の道は沢山の不思議から成っていることがわかる。
(†心のデボーション02097)
† 心のデボーション 02098
「イエス言ひ給ふ『よしや我、かれが我の來るまで留るを欲すとも、汝になにの關係あらんや、汝は我に從へ』」 ヨハネ21:22 明治元訳聖書
「イエスは彼に言われた、『たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい』。」 口語訳聖書
「人並み」
人ごみの中にまぎれ込んでいると、どこか安心する。自分が他人と同じであることに安堵する。しかし、個人としての自分から逃げている人には、人並みであるかどうかが常に問題になる。自分がそうしたいからというよりも、人と違うと思われることが怖い。人並み意識をはずせたら、もっと楽に生きられる。人には人の生き方があり、神はそれに「従いなさい」といわれる。他人には別の生き方があって、それはそれで良い。
(†心のデボーション02098)
† 心のデボーション 02099
「視よ、聖所の幕、上より下まで裂けて二つとなり、また地震ひ、磐さけ」 マタイ27:51 大正文語訳聖書
「すると突然、聖所の垂れ幕が、上から下まで真っ二つに裂け、地が震え、岩が裂け」 フランシスコ会訳聖書
「十字架のイエス」
「イエスを十字架につけよ」と叫ぶ群衆の間には、奇妙な興奮があったかもしれない。奇跡のキリストが、より大きな奇跡を起こすのではないかという暗い期待である。ラザロを死から甦らせられたイエスは、どのようなまばゆい光をもって十字架を真っ二つに引き裂かれたことだろうか。
(†心のデボーション02099)
† 心のデボーション 02100
「また天より聲あり、曰く『これは我が愛しむ子、わが悦ぶ者なり』」 マタイ3:17 大正文語訳聖書
「我所喜悅者也」 漢訳聖書
「わが喜ぶ者」
「わが喜ぶ者」に漢訳聖書は「喜悅者」と訳す。「悦」は「心」+「兌」で「心の結ぼれを分解して取り去ること」。(「漢字源」学研) 神は心の底から喜ばれる。
(†心のデボーション02100)
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