† 心のデボーション 02071
「かつ祈のとき何にても信じて求めば、ことごとく得べし」 マタイ21:22 大正文語訳聖書
「あなた方が信じて祈るなら、求めることはすべてかなえられる」 フランシスコ会訳聖書
「二つのいやし」
魂のいやしには二つのかたちがある。心の中にあった悩みが全くなくなっていやされる人と、悩みはあるけれども人生を意味あるものとして生きることによっていやされる人である。どちらが正しいかという議論は無用である。そのどちらも神の恩寵によるものだからである。神がどのように祈りに答えてくださるかは神にお任せすれば、その信仰の中で、苦悩は喜びに変わる。
(†心のデボーション02071)
† 心のデボーション 02072
「施與を好むものは肥え 人を潤ほす者はまた利潤をうく」 箴言11:25 明治元訳聖書
「祝福する魂は肥え/他者を潤す人は自分も潤う。」 聖書協会共同訳聖書
「祝福」
他者を祝福できる魂は豊であり、その人は自身を豊に潤す。この場合、「他者」とは隣人だけではなく、自然や世界、人間全体を意味する。「他者を潤す」人は他者のなかに自分を見出す人である。他者を祝福する人は祝福された自己に出会う。
(†心のデボーション02072)
† 心のデボーション 02073
「汝ら只ヱホバをかしこみ心をつくして誠にこれにつかへよ而して如何に大なることをヱホバ汝らになしたまひしかを思ふ可し」 Ⅰサムエル12:24 明治元訳聖書
「ひたすら主を畏れ、誠実に心を尽くして主に仕えなさい。主があなたがたになさった偉大な御業をよく考えなさい。」 聖書協会共同訳聖書
「誠実な人」
旧約聖書外典ベン=シラの知恵には「自分の分別に確信を持ち/お前の言葉を首尾一貫させよ。」とある。「首尾一貫させよ」は英語 be consistent で、「首尾一貫していて矛盾がない、筋が通っている」の意味である。英語 cohere も首尾一貫を意味するが、cohere の語源は、「co 共に+ her 粘着する」で、「密着する」の意味を持っている。言葉に乱れのない人は、言行と思想が密着して矛盾がない誠実な人である。
(†心のデボーション02073)
† 心のデボーション 02074
「非禮を行はず、己の利を求めず、憤ほらず、人の惡を念はず」 Ⅰコリント13:5 大正文語訳聖書
「礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない」 新共同訳聖書
「愛は不作法をせず」
愛は不作法をしない。ある人はこのところを「荒い言葉をかけたり、喧嘩腰でものをいったりしないこと」と解説している。粗野な言葉で相手を辱めたり、失礼な振る舞いをしない。だからといって、言葉が柔らかければ良いともいえない。静かな言葉で荒い物言いをするのも不作法である。何が礼儀かは、相手への気づかいがあればわかる。
(†心のデボーション02074)
† 心のデボーション 02075
「萬の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。」 ヨハネ1:3 大正文語訳聖書
「万物は言によって成った。言によらずに成ったものは何一つなかった。」 聖書協会共同訳聖書
「あらゆるもの(こと)」
「万物 πᾶς パース 何であれ、あらゆるもの、全体」は神によって創造された。天と地の「あらゆるもの」と「あらゆること」はかみによって存在に至るのである。(創世記1:1)
現在の「あらゆる出来事」は創造の神による働きである。その意味は神の内に隠されている。
コロサイ1:14 聖書協会共同訳聖書
天にあるものも地にあるものも/見えるものも見えないものも/王座も主権も/支配も権威も/万物は御子において造られたからです。/万物は御子によって、御子のために造られたのです。
(†心のデボーション02075)
† 心のデボーション 02076
「なんぢらヱホバの書をつまびらかにたづねて讀べし」 イザヤ34:16 明治元訳聖書
「あなたがたは主の書をつまびらかに/たずねて、これを読め。」 口語訳聖書
「著者からの手紙」
短歌では、抽象的な題材を詠むときも、現実の風景を大切にする。それによって、より深い情感が描かれる。英語の「文学 literature」はラテン語 littera 「文字、手紙」から来ている。著者からの手紙のように聖書を読むがよい。
(†心のデボーション02076)
† 心のデボーション 02077
「人よ彼さきに善事の何なるを汝に告たり ヱホバの汝に要めたまふ事は唯正義を行ひ憐憫を愛し謙遜りて汝の神とともに歩む事ならずや」 ミカ6:8 明治元訳聖書
「人よ、何が善であるのか。/そして、主は何をあなたに求めておられるか。/それは公正を行い、慈しみを愛し/へりくだって、あなたの神と共に歩むことである。」 聖書協会共同訳聖書
「何が善であるのか」
「何が善であるのか。そして、主は何をあなたに求めておられるか」を神に尋ねよ。「神と共に歩む」道が示されるだろう。自分にとっては「善」と思えることでも、「神の善」ではないことが少なくない。問うのは神の善が何であるかであって、自分の善ではない。
(†心のデボーション02077)
† 心のデボーション 02078
「孫は老人の冠弁なり 父は子の榮なり」 箴言17:6 明治元訳聖書
「孫たちは老人の冠、」 新改訳聖書
「孫を手放す」
不思議なことに、どの孫でも同じに可愛いというものではないという。どの孫が溺愛されやすいかといえば、自分が子育てに失敗したと思っている子どもの子という話である。ふつつかなわが子にはまかせておけないという気持ちと、今度は失敗しないという思いとが孫に向かわせた結果であろう。しかし、こうした動機からの孫育ては、失敗に終わることが多い。孫をどのように手放すかは、わが子よりも難しいかもしれない。
(†心のデボーション02078)
† 心のデボーション 02079
「萬の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。」 ヨハネ1:3 大正文語訳聖書
「万物は言によって成った。言によらずに成ったものは何一つなかった。」 聖書協会共同訳聖書
「宇宙万物を」
旧約聖書外典エズラ記(ラテン語)には次のようなことばがある。「私がこれらをあなたの御前で語ったのは、主よ、初めに世をお造りになったのは私たちのためだ、と言われたからです。」(エズラ記(ラテン語)6: 55 聖書協会共同訳聖書) 神は宇宙万物を人のために創られた。
(†心のデボーション02079)
† 心のデボーション 02080
「イエス答へて言ひたまふ『今は許せ、われら斯く正しき事をことごとく爲遂ぐるは、當然なり』」 マタイ3:15 大正文語訳聖書
「しかし、イエズスはこれに答えて、「今は、止めないでください。このように、なすべきことをすべて果たすのは、わたしたちにとって正しいことです」と仰せになった。そこで、ヨハネは譲ってお言葉どおりにした」 フランシスコ会訳聖書
「そこでヨハネもイエズスのするままにさせた」 バルバロ訳聖書
「なるがままに」
「言われるとおりに ἀφίημι アふィエーミ」は、本節の「今は、止めないでほしい ἀφίημι アふィエーミ」と同語。ヨハネは「神のなすまま」を「なるがまま」にした。それが「従う」ことである。神が「止めるな」といわれることは、手を加えずにそのままに保てばよい。放置するというよりも、その働きに働かせることである。「イエズスのするままにさせ」よ。(バルバロ訳)
(†心のデボーション02080)
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