心のデボーション206

デボーション1
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† 心のデボーション 02051

「幸福なるかな、心の清き者。その人は神を見ん」 マタイ5:8 大正文語訳聖書

「心の清い人は幸いである、その人は神を見るであろう」 フランシスコ会訳聖書

 「うすめられた心」

「きよいκαθαρός  カたロス」は「汚れていない、潔白」を意味することばである。バークレーは、このギリシャ語には「まざりもののない、水でうすめられていない」という意味があると指摘する。「心のきよい者」とは「心がうすめられていない者」と読むこともできるかもしれない。心がうすまって、感動を失ってしまったのである。その時は、神を想いがよい。心に静かな感動が充ちて、心が濃くなる。(Ⅰペテロ3:2)

(†心のデボーション02051)

† 心のデボーション 02052

「我日の下に一の患事あるを見たり是は君長たる者よりいづる過誤に似たり」 伝道10:5 明治元訳聖書

「わたしは日の下に一つの悪のあるのを見た。それはつかさたる者から出るあやまちに似ている。」 口語訳聖書

 「身分不相応な高み」

伝道者は愚か者が非常に高い地位についたり、富む者が低い席に着けられたりするのを「一つの悪」と見て、それは「権力者から出るあやまち」のようだと言う。身分不相応の扱いをすることも、その位置に置かれる者も「不幸」である。だが、身分不相応な高みに置かれる人はそれを「不幸」とは思わない。

(†心のデボーション02052)

† 心のデボーション 02053

「その途は樂しき途なり その徑すぢは悉く平康し」 箴言3:17 明治元訳聖書

「知恵の道は友愛の道/その旅路はいずれも平安。」 聖書協会共同訳聖書

 「サーキット」

自動車レースや競馬場など円周形の道をサーキット circuit という。Circuitはラテン語のcircuitus「丸く回る」から来ている。野球の一塁からホームまでの一周もサーキットである。人の頭の中にも一つの思考回路があって、周遊しながら様々な仕事をするようだ。思考の流れがうまくゆくとよい仕事ができる。「知恵の道」はどのような回路なのだろうか?

(†心のデボーション02053)

† 心のデボーション 02054

「幾日も經ぬに、弟おのが物をことごとく集めて、遠國にゆき、其處にて放蕩にその財産を散せり。」 ルカ15:13  大正文語訳聖書

「それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。」 口語訳聖書

 「羊を散らすように」

放蕩息子は父の財産を売り払って金に換え、遠い国に行き、「湯水のごとくに」使ってしまう。「湯水のごとくに」は原文に「羊を散らすように」となっている。羊は臆病な動物で、いつも群れをつくる。何かに驚くとあっという間に四方八方に散ってしまう。散った羊を集めるのは大変な作業だという。子どもは自立する過程で、一度はすべてを散らしてしまわなければと思うのだろうか。

(†心のデボーション02054)

† 心のデボーション 02055

「兄弟よ、なんぢらは我らの勞と苦難とを記憶す、われらは汝らの中の一人をも累はすまじとて、夜晝工をなし、勞しつつ福音を宣傳へたり。」 Ⅰテサロニケ2:9 大正文語訳聖書

「兄弟たちよ。あなたがたはわたしたちの労苦と努力とを記憶していることであろう。すなわち、あなたがたのだれにも負担をかけまいと思って、日夜はたらきながら、あなたがたに神の福音を宣べ伝えた。」 口語訳聖書

 「言い過ぎない」

パウロは教会に負担をかけないように、日々働きながら伝道した。人のパンを只で食べなかった。

「負担をかけない ἐπιβαρέω」は「重荷を負わせない」の意味であるが、パウロは、「あまりに多くの言葉を積み上げて、言い過ぎにならないようにしたい」と気遣っている。(Ⅱコリント2:5)「負担をかけない ἐπιβαρέω」はパンの問題だけでなく、宣教において「言い過ぎない、大げさに言わない」ことでもあった。

(†心のデボーション02055)

† 心のデボーション 02056

「汝かれらに此等のことを思ひ出さしめ、かつ言爭する事なきやう神の前にて嚴かに命ぜよ、言爭は益なくして聞く者を滅亡に至らしむ。」 Ⅱテモテ2:14 大正文語訳聖書

「これらのことを人々に思い起こさせ、言い争いなどしないようにと、神の前で厳しく命じなさい。そのようなことは、何の役にも立たず、聞く者を破滅させるのです。」 聖書協会共同訳聖書

 「喧嘩」

喧嘩するなら、いかに手打ちをするかを考えておくことだと言われている。しかし、和解の手立てをしてからの喧嘩は喧嘩になるまい。言うだけ言ったあとで、落としどころをみつけるのが精一杯であろう。喧嘩などしないほうがよいが、それによって回復する関係もある。聖書には「言い争い 」はあっても「喧嘩」ということばは見つからない。「言い争い λογομαχέω」は「罵る、侮辱する、悪口をあびせる」の意味である。これは「何の役にも立たない」(聖書協会共同訳聖書)。

(†心のデボーション02056)

† 心のデボーション 02057

「然ば神また汝を狹きところより出して狹からぬ廣き所に移したまふあらん 而して汝の席に陳ぬる物は凡て肥たる物ならん」 ヨブ36:16 明治元訳聖書

「神はまたあなたを悩みから、/束縛のない広い所に誘い出された。そしてあなたの食卓に置かれた物は/すべて肥えた物であった。」 口語訳聖書

 「束縛のない所」

神は悩みの中から、束縛のない広い所に誘いだされる。悩みがなくなる所ではなく、悩みに束縛されない所である。物事は流動する。しかし、変化する時のなかで他と関心を共にする生きた関係です。困難の中にあっても、食卓には肥えた物があり、共に食する人がいる。

(†心のデボーション02057)

† 心のデボーション 02058

「人の智慧はその人の面に光輝あらしむ 又その粗暴面も變改べし」 伝道8:1 明治元訳聖書

「人の知恵はその人の顔を輝かせ、またその粗暴な顔を変える」 口語訳聖書

 「苦手」

相手を嫌いになるとできるだけ遠ざかろうとする心理が働く。好きか嫌いかは、その人との距離感になって現れる。嫌いというわけではなく、何となく苦手という人もいる。つい敬遠して、相手との間に距離を置くと、相手は自分が嫌われていると勘違いし、二人の間に溝ができることもある。苦手な人には顔の固さを和らげてみる。嫌いという感情にまで発展することを防ぐことができるかもしれない。

(†心のデボーション02058)

† 心のデボーション 02059

「すこしの物を有てヱホバを畏るるは多の寳をもちて擾煩あるに愈る」 箴言15:16 明治元訳聖書

「主を畏れる者のささやかな持ち物は/心配しながら持つ多くの宝にまさる。」 聖書協会共同訳聖書

 「ささやかな持ち物」

限りない生産と消費の社会は長続きしない。とめどなく物を求めるのは死である。主を畏れる者が手にする「ささやかな持ち物」は、富める者が蓄える多くの宝」にまさる。彼は「ささやかな持ち物」を「宝物」のように扱う。

(†心のデボーション02059)

† 心のデボーション 02060

「ヨハネ之を止めんとして言ふ」 マタイ3:14 大正文語訳聖書

「ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った」 新共同訳聖書

 「行き過ぎた謙譲」

バプテスマのヨハネはイエスが自分からバプテスマを受けようとされるのを「思いとどまらせようと」する。

「おもいとどまらせようとして διακωλύω  デイアーりゆオー」は「διά + κωλύω 妨げる邪魔する」で、妨害をしてまでも「どうしても思いとどめようとする」必死の思いである。謙虚さから神の行為を「必死になっておもいとどまらせようとする」ことがある。しかし、それは行き過ぎた謙譲である。

(†心のデボーション02060)

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