† 心のデボーション 02041
「ヱホバに感謝せよヱホバはめぐみふかし その憐憫はとこしへに絶ることなければなり」 詩篇136:1 明治元訳聖書
「主に感謝せよ、主は恵みふかく、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない」 口語訳聖書
「いやな気分の日」
米国ミシガン大学の調査によると、たいていの人は一ヵ月のうち三日くらいはいやな気分になるという。いやな気分は受け流すのがよく、歓迎する必要はないが、お断わりもしないことだ。残りの二十七日が全部爽快かといえば、そうではなく、これも又、三日くらいである。つまり、一ヵ月のうち二十四日は、そういやでなければ上々ということなのだろう。私はそういう一ヵ月を主に感謝している。
(†心のデボーション02041)
† 心のデボーション 02042
「我等をしてみな信仰と神の子を知る知識とに一致せしめ、全き人、すなはちキリストの滿ち足れるほどに至らせ、」 エペソ4:13 大正文語訳聖書
「私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。」 新改訳聖書
「成熟」
コフートは自己愛を育て直すには、うまくいったら正しく褒めてくれる存在、落ち込んだとき励ましてくれる存在、自分も人と同じ人間なのだと思わせてくれる存在があるとよいという。自己愛障害の為ばかりでなく、すべての人が見出すとよい相手である。正しく愛してくれる相手によって人格は成熟する。
(†心のデボーション02042)
† 心のデボーション 02043
「智人の途は生命の路にして上へ昇りゆく これ下にあるところの陰府を離れんが爲なり」 箴言15:24 明治元訳聖書
「知恵ある人の道は上って命に至る、こうしてその人は下にある陰府を離れる。」 口語訳聖書
「クロノメーター」
船にはクロノメーター chronometer と呼ばれる高性能の時計が備え付けられているという。荒波や気温の変化の影響も受けず、航海中の経度を正確に測ることができて、荒れた海上でも正確な位置を知ることができる。イギリスでクロノメーターを開発した者には国王の身代金に相当する賞金を払うという布告に対して、1773年に時計職人ジョン・ハリソンが開発し、国王の身代金相当の賞金を獲得したそうである。自分の心の位置を正確に教えてくれるクロノメーターができたとしても、正しい位置に導いてくれる装置がなければ、かえって不安を増すことになるかもしれない。
(†心のデボーション02043)
† 心のデボーション 02044
「かれらは缺乏と饑とによりて痩おとろへ 荒かつ廢れたる暗き野にて乾ける地を咬む」 ヨブ30:3 明治元訳聖書詩篇
「彼らは乏しさと激しい飢えとによって、/かわいた荒れ地をかむ。」 口語訳聖書
「砂漠をかじる」
他人の弱さを「あざ笑う」人もいる。その人の心は「欠乏とききんでやつれ」、「砂漠をかじっている」とヨブは言う。心が少しのうるおいもなく、干からびて、砂漠のような乾いた状況に身を置くことがある。そこで人は神と出会う。しかし、心に砂漠を呑んではいけない。他者への「あざけり」が心の砂漠からの風に乗せられて吹き、「砂漠」をひろげていく。
(†心のデボーション02044)
† 心のデボーション 02045
「われを愛する者は我これを愛す 我を切に求むるものは我に遇ん」 箴言8:17 明治元訳聖書
「私を愛する人を私も愛し/私を探し求める人を私も見いだす。」 聖書協会共同訳聖書
「探し求める人」
自分を愛してくれる人を愛するのは難しくない。しかし、自分を探し求める人を自分も探すのは難しい。たいていは、自分が見出されて、はじめて、自分を探し求めてくれたと知る。自分を探し求めてくれる人こそが自分を愛してくれる人である。自分を愛してくれる人がいないというのは、求められていることに気づかないからかもしれない。
(†心のデボーション02045)
† 心のデボーション 02046
「わが盾をとるものは心のなほきものをすくふ神なり」 詩篇7:10 明治元訳聖書
「私の盾は神にあり 神は心の直ぐな人を救われます。」 新改訳聖書
「心の声」
アレキシサイミア alexithymia 失感情症」は1970年代、精神科医のピーター・E・シフネオスらによって提唱された。アレキシサイミアは、ギリシャ語の「α(否定)+λεξις(言葉)+θυμος(感情)」からの造語αλεξιθυμίαである。感情がないのではなく、感情はあてもそれをうまく言語化したり、想像したり、表現することが不得意な傾向を指す。本人は悲しいのに人には悲しそうに見えないところから誤解されこともある。アレキシサイミア自身は病気ではないので、心の声に耳を傾け、自分の気持ちを日記に記すなどするとよいという。
(†心のデボーション02046)
† 心のデボーション 02047
「昔話と窮りなき系圖とに心を寄する事なからしめよ。此等のことは信仰に基ける神の經綸の助とならず、反つて議論を生ずるなり。」 Ⅰテモテ1:4 大正文語訳聖書
「作り話や切りのない系図に心を奪われたりしないように命じなさい。そのようなことは、無意味な詮索を引き起こすだけで、信仰による神の計画を実現させるものではありません。」 聖書協会共同訳聖書
「無意味な詮索」
旧約聖書外典ベン=シラの知恵には「お前にとって難しすぎることを追い求めるな。/力に余ることを詮索するな。」と言われている。(ベン=シラの知恵3:21 聖書協会共同訳聖書) 加えて、「無意味な詮索」は、「信仰による神の計画を実現すること」(聖書協会共同訳聖書)を妨げる。
(†心のデボーション02047)
† 心のデボーション 02048
「そはなんぢ弱きものの保砦となり 乏しきものの難のときの保砦となり 雨風のふききたりて垣をうつごとく暴ぶるものの荒きたるときの避所となり 熱をさくる蔭となりたまへり」 イザヤ25:4 明治元訳聖書
「あなたは貧しい者のとりでとなり、乏しい者の悩みのときのとりでとなり、あらしをさける避け所となり、熱さをさける陰となられた。あらぶる者の及ぼす害は、石がきを打つあらしのごとく、」 口語訳聖書
「はし一本」
タライの水を一本のはしでかき回す。根気よく続ければ、いつか水全部が回りはじめるのを「箸よく盤水を回す」という。思うようにいかないときにはなぐさめになる。これがプールとなれば話は別である。一本のはしが回せる水の量は決まっているからである。しかし、私は自分がプールの水を回そうとしているのではないかと密かに思うときがある。気が遠くなるほど回せばプールの水も回るかもしれないと。
(†心のデボーション02048)
† 心のデボーション 02049
「心は濯がれて良心の咎をさり、身は清き水にて洗はれ、眞の心と全き信仰とをもて神に近づくべし。」 ヘブル10:22 大正文語訳聖書
「心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。」 聖書協会共同訳聖書
「知恵の始まり」
「知恵の始まりは教えを真心から求めることである。」 旧約聖書外典知恵の書6:7 聖書協会共同訳聖書
「真心 ἀληθινός」には「現実の、本物の」の意味があり、真実(現実の、偽りなき、本当の)心をもって神に近づくことが知恵の始まりである。
(†心のデボーション02049)
† 心のデボーション 02050
「われは汝にバプテスマを受くべき者なるに、反つて我に來り給ふか」 マタイ3:14 大正文語訳聖書
「我こそ汝に洗せらるべきに、汝我に來り給ふか」 ラゲ訳聖書
「汝我に來り給ふか」
復活のイエスは弟子たちに「なんぢら我が飢ゑしときに食はせ、渇きしときに飮ませ、旅人なりし時に宿らせ、 裸なりしときに衣せ、病みしときに訪ひ、獄に在りしときに來りたればなり」と言われた。弟子たちは驚き、思わず「主よ、何時なんぢの飢ゑしを見て食はせ、渇きしを見て飮ませし。 何時なんぢの旅人なりしを見て宿らせ、裸なりしを見て衣せし。何時なんぢの病みまた獄に在りしを見て、汝にいたりし」とイエスに尋ねた。訝る弟子にイエスは「まことに汝らに告ぐ、わが兄弟なる此等のいと小き者の一人になしたるは、即ち我に爲したるなり」と答えられた。(マタイ25:35~40)イエスが私に来られるのは、思わぬところ、につかわしくない姿においてである。そのとき、私は「イエス我に來り給ふか」と驚くしかない。
(†心のデボーション02050)
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