心のデボーション204

デボーション1
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† 心のデボーション 02031

「イスラエル死る日ちかよりければその子ヨセフをよびて之にいひけるは我もし汝のまへに恩を得るならば請ふなんぢの手をわが髀の下にいれ懇に眞實をもて我をあつかへ我をエジプトに葬るなかれ」 創世記47:29 明治元訳聖書

「イスラエルに死ぬべき日が近づいたとき、その子ヨセフを呼び寄せて言った。「もしあなたの心にかなうなら、どうかあなたの手を私のももの下に入れ、私に愛と真実を尽くしてくれ。どうか私をエジプトの地に葬らないでくれ。」 新改訳聖書

 「愛と真実」

本当のことをいわないのは嘘をつくことと違う。しかし、相手が誤解していて、それが自分に有利な場合、それは嘘になるばかりか、困ったところに追い込まれることもある。本当をいわないことが相手を助ける場合、それは嘘というべきではないのかもしれない。その時でも、それが相手の益になるという根拠はない。問題は本当のことを告げるかどうかではなく、「愛と真実」をどれほど尽せるかである。そこに嘘があってはいけない。

(†心のデボーション02031)

† 心のデボーション 02032

「しかしてヨナタンふたたびダビデに誓はしむかれを愛すればなり即ちおのれの生命を愛するごとく彼を愛せり」 Ⅰサムエル20:17 明治元訳聖書

「ヨナタンは、ダビデに対する愛のゆえに、もう一度ダビデに誓わせた。ヨナタンは、自分を愛するほどにダビデを愛していたからである。」 新改訳聖書

 「自己愛」

フロイトが自己愛を「未熟な自己愛」と観るのに対して、ハインツ・コフート(Heinz Kohut)は未熟な自己愛から成熟した自己愛への発達的倫理と観る。この段階を経ることによって他者を受容することのできる真の自己が形成されていくという。自分を愛することができないと他人を愛することができないし、他人を愛することができないと自分を愛することができない。ダビデとヨナタンの間にあった友情は、互いに相手を認め、信頼する真の自己愛をもたらしたに違いない。

(†心のデボーション02032)

† 心のデボーション 02033

「美しき婦のつつしみなきは金の環の豕の鼻にあるが如し」 箴言11:22  明治元訳聖書

「美しい女の慎みがないのは、金の輪の、ぶたの鼻にあるようだ」 口語訳聖書

 「たしなみ」

ベン=シラの知恵32:1~13には、宴会の席での作法について懇ろな勧めがある。それらは長老から若者まで、現在でも十分に通用するもので、目を通されることをお勧めする。宴会では長居は無用で、「時間になったら、席を立って、最後までいるな。/家路を急ぎ、道草を食うな。」と言われている。(聖書協会共同訳聖書)

箴言11:22のたしなみのない者は男でもおなじである。

(†心のデボーション02033)

† 心のデボーション 02034

「二人は一人に愈る其はその勞苦のために善報を得ればなり」 伝道4:9 明治元訳聖書

「ふたりはひとりにまさる。彼らはその労苦によって良い報いを得るからである」 口語訳聖書

 「旅立ち」

子どもが巣立った後の空白を埋めるには、夫婦が互いの存在理由を確認できる何かを見い出すことが必要である。子どもと共に、夫婦も「愛する人の幸せに何ができるか」を探す旅立ちをするのである。この苦労の報いは、互いの存在が身近に感じられ、これまで知らなかった互いを発見する喜びであろう。それは単調な日常の繰り返しの内に秘められた美しさを見いだす作業ではないだろうか。こうして、夫婦はもう一度結婚するのだろうか。

(†心のデボーション02034)

† 心のデボーション 02035

「斯てわが聖山のいづこにても害ふことなく傷ることなからん そは水の海をおほへるごとくヱホバをしるの知識地にみつべければなり」 イザヤ11:9 明治元訳聖書

「彼らはわが聖なる山のどこにおいても、そこなうことなく、やぶることがない。水が海をおおっているように、主を知る知識が地に満ちるからである。」 口語訳聖書

 「聖なる山」

聖なる山においては、乳離れした子がまむしの子に手を伸ばしても、「そこなうことなく、やぶることがない」(イザヤ11:9 口語訳聖書)。聖なる山に登り、主の聖名を呼べ。主は答えられ、あなたをそこなう(害を与える、滅ぼす)ものはない。そこでは、主を知る知識が満ちるからである。

「私は声をあげて主を呼び求める。 すると 主はその聖なる山から私に答えてくださる。 セラ」 詩篇3:4 新改訳聖書

(†心のデボーション02035)

† 心のデボーション 02036

「然ば我はわが口を禁めず 我心の痛によりて語ひ わが神魂の苦しきによりて歎かん」 ヨブ7:11 明治元訳聖書

「それゆえ、私は自分の口を抑えず/私の霊の苦悩をもって語り/私の魂の苦痛をもって嘆きます。」 聖書協会共同訳

 「ナルシスト」

ナルシストは自己愛が未熟なままに大人になった人である。自己愛を満たしてくれる相手に寄り添うが、相手が自分を見つめると、熱が冷めて次の標的に向かう。他人はすべて自分の自己愛を満たすための道具にすぎないからだ。彼(彼女)の恋愛はゲームにすぎない。相手が自分を振り向いてくれれば、ゲームオーバーなのだ。ナルシストは欲しいもののためには努力を惜しまないので、大きな仕事を成し遂げることもできるが、そこにもナルシストの弱さが見え隠れする。自分の内にいるナルシストの自己愛を成熟させるしかない。

(†心のデボーション02036)

† 心のデボーション 02037

「なんぢ神の深事を窮むるを得んや 全能者を全く窮むることを得んや」 ヨブ11:7 明治元訳聖書

「あなたは神の深い事を窮めることができるか。全能者の限界を窮めることができるか」 口語訳聖書

 「神の深み」

「神の深い事」(口語訳聖書)は、「神の深さ」(新改訳聖書、フランシスコ会訳聖書)、「神を究めること」(新共同訳聖書)、「神を究め」(聖書協会共同訳聖書)と訳される。「窮める」(口語訳聖書)は、「見つける」(新改訳聖書)、「極みまで見る」(新共同訳聖書)、「極みまで見通す」(聖書協会共同訳聖書)、「極限を究める」(フランシスコ会訳聖)と訳されている。神の深さを計ることはできない。

(†心のデボーション02037)

† 心のデボーション 02038

「この故に我なんぢらに告ぐ、何を食ひ、何を飮まんと生命のことを思ひ煩ひ、何を著んと體のことを思ひ煩ふな。生命は糧にまさり、體は衣に勝るならずや」 マタイ6:25 大正文語訳聖書

「それゆえ、あなたがたに言っておく。命のために何を食べ、何を飲もうか、また体のために何を着ようかと、思い煩ってはならない。命は食べ物にまさり、体は着る物にまさっているではないか」 フランシスコ会訳聖書

 「杞憂」

昔、中国の杞に、天をあおいでは、いつかそれが崩れ落ちるのではと心配する人がいたという。そこから、いらぬ心配をするのを「杞憂」というようになった。ギリシャ語で「心配 μεριμνάω  メリムナオー」は、「いくつもに分かれる」ということばからきている。思いがいくつもに分裂して対立し、あれこれ悩む。なにを食べようか、何を着ようかと心配しない人は、「杞憂」を笑うこともしないかもしれない。

(†心のデボーション02038)

† 心のデボーション 02039

「人はまたその時を知ず 魚の禍の網にかかり鳥の鳥羅にかかるが如くに世の人もまた禍患の時の計らざるに臨むに及びてその禍患にかかるなり」 伝道9:12 明治元訳聖書

「人はその時を知らない。魚がわざわいの網にかかり、鳥がわなにかかるように、人の子らもわざわいの時が突然彼らに臨む時、それにかかるのである。」 口語訳聖書

 「その時」

小魚が不運の網に掛かるように、小鳥が仕掛けた罠に掛かるように、人は「その時」を知らない。明日何が起こるか、人は知らない。しかし、知ることができ、避けることのできる「時」もある。神の知恵がそれを教えてくれる。
(†心のデボーション02039)

† 心のデボーション 02040

「ヨハネ之を止めんとして言ふ」 マタイ3:14 大正文語訳聖書

「ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った」 新共同訳聖書

 「思いを魂の中にいれる」

「思いをとどまらせる διακωλύω  デイアーりゆオー」は「ko,loj  短く切り詰める」から来た言葉。思いを切り詰めること。これに対して「思いを巡らす ἐνθυμέομαι  エンとゆメオマイ」(マタイ1:20)は、「ἐν 中に + θυμός 魂、呼吸、生命、生気、気力、心」で思いを魂の中にいれること。深みが見えないからといって、「神の思い」を「κόλος  短く切り詰めて」はならない。「思いを巡らす」ことである。

(†心のデボーション02040)

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