† 心のデボーション 02021
「ねがはくは全能の神その人のまへにて汝等を矜恤みその人をして汝等の他の兄弟とベニヤミンを放ちかへさしめたまはんことを若われ子に別るべくあらば別れんと」 創世43:14 明治元訳聖書
「全能の神がその方に、あなたがたをあわれませてくださるように。そしてもうひとりの兄弟とベニヤミンとをあなたがたに返してくださるように。私も、失うときには、失うのだ。」 新改訳聖書
「失うとき」
ヤコブは「私も、失うときには、失うのだ」と力なくつぶやきながら、再び生きて会えるかわからない息子ユダとベニヤミンを送り出した。
人生には、今、失ったら二度と取り戻せないものがある。ヤコブのように「失うときには、自分もうしなうのだ」と知っておく必要がある。そのとき、思い出したいのは、「あなたがたの髪の毛一筋も失われることはありません」といわれた主のみことばである。
(†心のデボーション02021)
† 心のデボーション 02022
「なやみの日にわれをよべ我なんぢを援けん而してなんぢ我をあがむべし」 詩篇50:15 明治元訳聖書
「悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう」 口語訳聖書
「悩みの日」
人は自分のことで悩むか、他人のことで悩むかで、心のトラブルの性格が分かれる。自分を意識しすぎても、他人を意識しすぎても都合が悪い。無視しているものをとりもどすがよい。
ベン=シラの知恵には、「お前の魂を悲しみに委ねるな/好き好んで自ら悩むな。」(ベン=シラの知恵30:21 聖書協会共同訳聖書)という言葉がある。
(†心のデボーション02022)
† 心のデボーション 02023
「イエスその聰く答へしを見て言ひ給ふ『なんぢ神の國に遠からず』此の後たれも敢へてイエスに問ふ者なかりき。」 マルコ12:34 大正文語訳聖書
「イエスは、彼が適切な答をしたのを見て言われた、「あなたは神の国から遠くない」。それから後は、イエスにあえて問う者はなかった。」 口語訳聖書)
「傍観者」
英語で傍観者のことをbystander というが、この語は「by(脇に)、stand(立つ)、er(人)」のことで、近くにいるか当事者にはならず、いつも脇に立っている人のことである。イエスが「あなたは神の国から遠くない」(口語訳聖書)と言われたのは、そういう人のことかもしれない。
(†心のデボーション02023)
† 心のデボーション 02024
「されど眞の禮拜者の、靈と眞とをもて父を拜する時きたらん、今すでに來れり。父はかくのごとく拜する者を求めたまふ。」 ヨハネ4:23 大正文語訳聖書
「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。
父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。」 口語訳聖書)
「今がその時」
ぎりぎりに追い詰められたところで、いきなり道が開けることがある。開かれたものをうまくとらえることができれば、面白い展開を期待できる。しかし、捉え損なって「ぎりぎり」を持ち越すと、事態は難しくなるかもしれない。「今、ここ」を生きることがあって、「今がその時」という瞬間を捉えることができる。魂が、「今がその時」という声を聴いたら、ためらわないことである。
(†心のデボーション02024)
† 心のデボーション 02025
「そは此の朽つる者は朽ちぬものを著、この死ぬる者は死なぬものを著るべければなり」 Ⅰコリント15:53 大正文語訳聖書
「朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。」新改訳聖書
「朽ちないもの」
神の国に入るには、人は「朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならない」(新改訳聖書)と言われている。すでに、神にある人は、必ず、新しいいのちを着、「不死」を身にまとう祝福が与えられている。我らは「朽ちるもの」の上に「朽ちないもの」を、「死ぬべき身体」に「不死」をまとうのである。「必ず δεῖ デイ」は「必ず~することになっている」で、「死ぬべき者」が「不死」を身にまとうことは決定的に定められ不可避であることを示す。
(†心のデボーション02025)
† 心のデボーション 02026
「たとひ虚偽をもてその恨をかくすとも その惡は會集の中に顯はる」 箴言26:26 明治元訳聖書
「たとい偽りをもってその憎しみをかくしても、彼の悪は会衆の中に現れる。」 口語訳聖書
「本音と建前」
「本音と建前」の「建前」は新築の棟上げに行われる上棟式のことです。なぜ、その「建前」が「本音と建前」の「建前」になるのだろうか。調べてみると意外な物語があった。昔、ある棟梁が明日は建前というときに、玄関の柱を実際よりも短く切ってしまったことに気づく。棟梁が頭を抱えていると妻が一升枡で短い柱の丈を補って急場を凌ぎ、あとで正しい寸法の柱にすればよいと知恵を出す。棟梁は賢い妻に助けられて無事棟上げをするが、もし妻がこの秘密を明かしたら自分は破滅すると悩み、妻を殺してしまう。しかし、自分が犯した罪に苦しみ、妻への供養として、上棟式には女の七つ道具(口紅、鏡、櫛、かんざし、おしろい、こうがい、かつら)を棟の上に飾るようになった。そこから、「本音」で尽くしてくれた妻よりも、「建前」を優先する「本音と建前」ということばに使われるようになったのだという。さすがに、「建前」は聖書には使われていない。日本では通用しても、外国では理解されにくい。
(†心のデボーション02026)
† 心のデボーション 02027
「視よ是等はただその御工作の端なるのみ 我らが聞ところの者は如何にも微細なる耳語ならずや 然どその權能の雷轟に至りては誰かこれを曉らんや」 ヨブ26:14 明治元訳聖書
「見よ、これらはただ彼の道の端にすぎない。われわれが彼について聞く所は/いかにかすかなささやきであろう。しかし、その力のとどろきに至っては、/だれが悟ることができるか」。口語訳聖書
「神の道の外側」
ヨブは天と地を見、その営みと業を見る。しかし、「これらはただ彼の道の端にすぎない」(新改訳聖書「神の道の外側にすぎない」)という。人は神の「かすかなささやき」しか聞いていない。だれが、「その力のとどろき」を聞き分けるこができるだろうか?
(†心のデボーション02027)
† 心のデボーション 02028
「心の苦みは心みづから知る其よろこびには他人あづからず」 箴言14:10 明治元訳聖書
「心がその人自身の苦しみを知っている。その喜びにもほかの者はあずからない」 新改訳聖書
「共鳴」
文語訳聖書はこのところを「心の苦しみは心みずからが知る」と訳す。心は自らの苦しみと共鳴する。それを知って人は喜ぶ、それは、他の者には決して味わえない喜びだと箴言は語る。共鳴する心をもたないことが本当の苦しみかもしれない。心の中に響き合うものが感じられないのである。共鳴する喜びがあれば、どんな苦しみにも耐えることができる。
(†心のデボーション02028)
† 心のデボーション 02029
「聖言うちひらくれば光をはなちて 愚かなるものをさとからしむ」 詩篇119:130 明治元訳聖書
「あなたの言葉が開かれると光が射し/無知な者にも悟りを与えます。」 聖書協会共同訳聖書
「移し替えられた聖書」
旧約聖書外典ベン=シラの知恵に次のような一節がある。「もともとヘブライ語で書かれているものを他の言語に移し替えると、同じ意味を持たなくなってしまうからである。」(ベン=シラの知恵序章21~22節) これはベンシラの知恵の序章の中にある一節である。聖書はヘブライ語やアラム語で書かれたが、多くの言語に翻訳されて現代にいたっている。我らは「日本語に移し替えられた聖書」を読むが、何とかして原文と「同じ意味」の神のことばを学びたいのである。しかし、「移し替えられた聖書」はすでにその時点で他の言語をもって神のことばを読むことがはじまっているのである。御言葉は御言葉自身が御言葉に光を与える。
(†心のデボーション02029)
† 心のデボーション 02030
「われは汝にバプテスマを受くべき者なるに、反つて我に來り給ふか」 マタイ3:14 大正文語訳聖書
「我こそ汝に洗せらるべきに、汝我に來り給ふか」 ラゲ訳聖書
「神の到達」
私が神に行くのは、神が私に来られたことによる。私が神に行くのではなく、神が私に来られたのである。神がいつ私に来られるのかを思う必要はない。私が「私」に思いを寄せるとき、神はすでに私に来られるのである。しかし、人は常に神の到達に戸惑う。思わぬ所に来たり給うからである。
「ヤコブ目をさまして言けるは誠にヱホバ此處にいますに我しらざりきと」 創世記28:16 明治元訳聖書
(†心のデボーション02030)
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