† 心のデボーション 02011
「請ふ汝わが妹なりと言へ然ば我汝の故によりて安にしてわが命汝のために生存ん」 創世12:13 明治元訳聖書
「どうかあなたは、わたしの妹だと言ってください。そうすればわたしはあなたのおかげで無事であり、わたしの命はあなたによって助かるでしょう」 口語訳聖書
「ほんの少し」
サライはアブラハムの異母兄弟でしたので、エジプト人に妻ではなく妹といわせたのは全くの偽りではなかった。しかし、アブラハムがあえてそうさせたのは、自分が夫であることを隠すためだった。真実にほんの少しの偽りを含ませることによって、意図的に誤解させることがでる。愛する者に詐欺のような手口を押しつけ、自分が生き延びることを考える、その心をアブラハムは恥じるべきであった。
(†心のデボーション02011)
† 心のデボーション 02012
「なんぢの屋のゆたかなるによりてことごとく飽ことをえん なんぢはその歓樂のかはの水をかれらに飮しめたまはん」 詩篇36:8 明治元訳聖書
「彼らはあなたの家の豊かさによって満ち足り/あなたの喜びの川に渇きを癒やします。」 詩篇36:9 聖書協会共同訳聖書
「豊かさの保障」
「教えに心を向けることとは愛であり/愛とは知恵の法を守ることであり/法を守ることは不滅を保障し」 知恵の書6:18 聖書協会共同訳聖書老いの不安は主に経済的保障であるという。しかし、それだけだろうか?
知恵の書は、「不滅の保障」とは「法を守ること」からくるという。「法」とは「知恵の法」であり、愛をもって「知恵の法」に心をむけよと語る。神のことばに心を向けることは、死の不安から人を解放し、永遠に導く。この「保障」によって老いの豊かさが約束される。
(†心のデボーション02012)
† 心のデボーション 02013
「汝わがあまた土の流離をかぞへたまへり なんぢの革嚢にわが涙をたくはへたまへ こは皆なんぢの冊にしるしあるにあらずや」 詩篇56:8 明治元訳聖書詩篇
「あなたは私のさすらいの日々を/数えてくださいました。/私の涙をあなたの革袋に蓄えてください。/あなたの記録にはそうするよう書かれていませんか。」 詩篇56:9 聖書協会共同訳聖書
「記録」
英語で「伝記」は biography で、「bio いのち + graph 文字に書く」から来ており、人のいのちが描かれたものが「伝記」である。人はみな自分の伝記をもっている。詩篇の作者は神が自分の「さすらいの旅」を記録し、そこには「流された涙」が蓄えられていませんか? と尋ねる。神は「私」について、どのように書きとめておられるのだろうか。
(†心のデボーション02013)
† 心のデボーション 02014
「我は世人の皆往く途に往んとす汝は強く丈夫のごとく爲れ」 Ⅰ列王記2:2 明治元訳聖書
「わたしは世のすべての人の行く道を行こうとしている。あなたは強く、男らしくなければならない。」 口語訳聖書
「男らしさ」
ダビデは自分の死の日が近いと知って、息子ソロモンに「汝は強く丈夫のごとく爲れ」と励ました。男は「強く、男らしく」という期待に応えるために戦いに出ていく。たいていの男は、自分が誰よりも男らしいと信じたがるようです。そこで、少しでも他の男よりも多くを稼ごうとして寝食を忘れる。働きすぎる男は、働くことで男としての力を証明したいのかもしれない。ダビデの言う「男らしさ」とは、他の男よりも多くを獲得することではなく、神を畏れ、主の道を誠実に歩むことだった。
(†心のデボーション02014)
† 心のデボーション 02015
「この言は太初に神とともに在り」 ヨハネ1:2 大正文語訳聖書
「この言は初めに神と共にあった」 口語訳聖書
οὖτος ἦν ἐν ἀρχῇ πρὸς τὸν θεόν.
「永遠から永遠にわたって」
「凡ての智慧は主より來り、永遠(とこしへ)に主と偕(とも)に在り」 πᾶσα σοφία παρὰ κυρίου καὶ μετ᾽ αὐτοῦ ἐστιν εἰς τὸν αἰῶνα ベン=シラの知恵1:1 聖書協会共同訳聖書
ベン=シラの知恵は「すべての知恵」は「παρὰ κυρίου 主から来て」、「εἰς τὸν αἰῶνα 永遠に(わたって) μετ᾽ αὐτοῦ 主と共に、在る。」と記す。「ことば ロゴス」は、永遠(とこしへ)から永遠(とこしへ)にわたって、神と共にあり、神と共に働く、神の知恵である。
(†心のデボーション02015)
† 心のデボーション 02016
「父と母とを敬へ」また「己のごとく汝の隣を愛すべし」』 マタイ19:19 大正文語訳聖書
「父と母とを敬え』。また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』」 口語訳聖書
「対人恐怖」
対人恐怖の多くは、他人が恐いのではなく、相手に自分がどう思われているかが恐い。視線恐怖症では自分の存在が相手に不快感を与えているのではないかと相手の視線を気にしてしまうのである。自分という存在を恐れる。
「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」自分を愛することのできないと、隣人を愛することはできない。
(†心のデボーション02016)
† 心のデボーション 02017
「この言は太初に神とともに在り」 ヨハネ1:2 大正文語訳聖書
「この言は初めに神と共にあった」 口語訳聖書
οὖτος ἦν ἐν ἀρχῇ πρὸς τὸν θεόν.
「創造的業」
すべての創造的業は「神と共にある」ことかすべてである。
「私の家は神と共にある。/神は永遠の契約を私に賜り/すべてを整え、すべてを守られる。/私の救い、私の喜びを/すべて神はかなえさせてくださる。」 Ⅱサムエル23:5 聖書協会共同訳聖書
(†心のデボーション02017)
† 心のデボーション 02018
「汝かれらになみだの糧をくらはせ涙を量器にみちみつるほどあたへて飮しめ給へり」 詩篇80:5 明治元訳聖書
「あなたは彼らに涙のパンを食べさせ、あふれる涙を飲ませられました」 新改訳聖書
「あふれる涙」
悲しいときには泣くがよい。流れる涙をぬぐうこともしないで、泣くのだ。神は時々、人に「涙のパン」を糧として「あふれる涙」を飲み物として与える。それによって、人は養われ、成長する。神は「わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た」といわれる。そして「私たちの目の涙をすっかりぬぐいとって下さる。
(†心のデボーション02018)
† 心のデボーション 02019
「幸福ある日には樂め 禍患ある日には考へよ 神はこの二者をあひ交錯て降したまふ 是は人をしてその後の事を知ることなからしめんためなり」 伝道7:14 明治元訳聖書
「順境には楽しめ、逆境にはこう考えよ/人が未来について無知であるようにと/神はこの両者を併せ造られた、と」 新共同訳聖書
「それも楽しむ」
順境の日には、それを楽しめ。しかし、人生は順境の日々で成り立ってはいない。逆境の日にも、それを楽しめ。「神はこの両者を併せ造られた」(伝道7:14 新共同訳聖書)のだからである。神は「順境と逆境」を背中合わせに造られる。
(†心のデボーション02019)
† 心のデボーション 02020
「われは汝にバプテスマを受くべき者なるに、反つて我に來り給ふか」 マタイ3:14 大正文語訳聖書
「我こそ汝に洗せらるべきに、汝我に來り給ふか」 ラゲ訳聖書
「神の謙譲」
神は人の前に跪かれ、人の業を受けられる。それなのに、人は何と粗末に「私」を扱うことだろうか。
神の謙譲によって、私は神と人と自分に跪くことを学ぶ。
(†心のデボーション02020)
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