† 心のデボーション 01991
「靜に聽る智者の言は愚者の君長たる者の號呼に愈る。」 伝道9:17 明治元訳聖書
「支配者が愚か者の中で叫ぶよりは/賢者の静かに説く言葉が聞かれるものだ。」 新共同訳聖書
「本音との対話」
本音というものは簡単になくなるものではない、また、なくすべきでもない。だからといって、本音をむき出しにしたのでは人を傷つけてしまう。本音との内的な対話を重ねていく必要がある。
「知恵ある者」は、祈りの中で本音との対話を重ね、「静かなことば」で愛を語るので、聞く者は慰められる。
しかし、「愚かな者の間の支配者」は、祈りを知らず、傷ついた心で本音を叫ぶので、聞く者は耳をふさぐ。
(†心のデボーション01991)
† 心のデボーション 01992
「なんぢは鍳たまへりその殘害と怨恨とを見てこれに手をくだしたまへり 倚仗なきものは身をなんぢに委ぬなんぢは昔しより孤子をたすけたまふ者なり」 詩篇10:14 明治元訳聖書
「あなたは苦しみと悩みを御覧になり/御手によって救おうと顧みてくださる。/不幸な人はあなたに身を委ね/あなたはみなしごの助け手となられた。」 聖書協会共同訳聖書
「不幸の中の幸せ」
「There is no greater grief than to recall a time of happiness when in misery. 不幸なときに幸せだったときを思い出すことほど悲しいことはない」 Alighieri Dante(アリギエリ・ダンテ)
よく見れば、不幸の中にも幸せを見出すことは不可能なことではない。
(†心のデボーション01992)
† 心のデボーション 01993
「ここにイエス、ヨハネにバプテスマを受けんとて、ガリラヤよりヨルダンに來り給ふ」 マタイ3:13 大正文語訳聖書
「イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた」 新改訳聖書
「罪人の列」
人はたとえ自分が罪人であっても罪人の列に並ぶことを厭う。「同じ」に見られるのは不本意なのだ。だが、イエスはその列に並ばれた。
(†心のデボーション01993)
† 心のデボーション 01994
「汝は施濟をなすとき、右の手のなすことを左の手に知らすな。」 マタイ6:3 大正文語訳聖書
「あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。」 新改訳聖書
「施しをするとき」
右の手のすることが左の手に知られないどころか、自分のしたことをラッパを吹いて知らせ、いつまでも忘れたくないのが人ではないか。そして、周囲の人がそれを認めてくれないことで怒りをためこむことまでしてしまう。
一層のこと、右手か左手かでなく、両手を使ってみたらどうか。そうすれば、右の手は「自分がした」と思えず、左の手も「自分だけがした」と主張することができない。
(†心のデボーション01994)
† 心のデボーション 01995
「汝ら春の雨の時に雨をヱホバに乞へヱホバは電光を造り大雨を人々に賜ひ田野において草蔬を各々に賜ふべし」 ゼカリヤ10:1 明治元訳聖書
「春の雨の季節には、主に雨を求めよ。/主は雷雲をもたらし/人々に豊かな雨を与え/すべての人に野の草を与えられる。」 聖書協会共同訳聖書
「春の雨」
この貧しさは「手の施しようがない」と思うなら、人はその貧しさから逃れることができないだろう。「手の施しようがない」と思うことで出口を塞いでしまったのだ。物事を変えようと思う人は、もはや貧しくない。
「貧しさ」は預金通帳の数字ではない。
(†心のデボーション01995)
† 心のデボーション 01996
「智者の目はその頭にあり愚者は黑暗に歩む 然ど我しる其みな遇ふところの事は同一なり」 伝道2:14 明治元訳聖書
「知恵ある者の目はその頭にあり/愚かな者は闇の中を歩む。/だが私は、両者に同じ運命が訪れることを知った。」 聖書協会共同訳聖書
「運命」
「Ducunt volentem fata, nolentem trahunt. 運命は望む者を導き、欲しない者をひきずる」 セネカの『倫理書簡集』
「運命」を受け止める者を、運命はその人を導いてくれる。「運命」を嫌がると、運命はその人を無理にでも引きずっていく。「運命 ducunt」は「導き」の意味である。
(†心のデボーション01996)
† 心のデボーション 01997
「ヱホバをおのが賴となし高るものによらず虚偽にかたぶく者によらざる人はさいはひなり」 詩篇40:4 明治元訳聖書
「私の口に新しい歌を/我らの神への賛美を授けてくださった。/多くの人はこれを畏れ、主に信頼する。」 聖書協会共同訳聖書
「新しい歌」
シェイクスピアの『ヘンリー6世』に「Birds of a feather flock together. 同じ羽毛の鳥は相寄る」という言葉があるという。「類は友を呼ぶ」という諺に用いられる。「牛は牛連れ馬は馬連れ」とも。似た者同士が自然に集まてくる。しかし、創造的なことは、関心も価値観も似たと所のない者が集まるところからはじまるようだ。
神は人を実に多彩な性格におつくりになっている。
(†心のデボーション01997)
† 心のデボーション 01998
「ヨブよ是を聽け 立ちて神の奇妙(くすし)き工作(わざ)を考がへよ」 ヨブ37:14 明治元訳聖書
「ヨブよ、耳を傾け、神の驚くべき御業について、よく考えよ」 新共同訳聖書
「稽古」
「お稽古」の「稽 けい」は、もともと「考える」の意味で、「稽古」は「古(いにしえ)を考える」である。
古(いにしえ)の事柄を今と比較して調べるのが「稽古」であった。
「滑稽」は「稽」が「滑 なめらか」と書く。「稽」が「滑 なめらか」にすぎると「滑稽」になる。
「稽古」は、決して「滑らか」な作業ではない。
「神の奇妙(くすし)き工作(わざ)を考がへる」が「滑らか」に過ぎるのは、どこかで「滑稽」に入り込んでしまっていないかと自省している。
(†心のデボーション01998)
† 心のデボーション 01999
「死よ、なんぢの勝は何處にかある。死よ、なんぢの刺は何處にかある」 Ⅰコリント15:55 大正文語訳聖書
「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。/死よ、お前の棘はどこにあるのか。」 聖書協会共同訳聖書
「不可避の者」
「Dum fata sinunt vivite laeti. 運命が許す限り、喜々として生きよ」セネカの『狂えるヘルクレス』
ギリシャ神話にはモライという運命の女神がいる。モライは三姉妹で、まず、クロートー「紡ぐ者」が「運命の糸」を糸巻きに紡ぎ、ラケシス「長さを計る者」がその長さを測り、アトロポスが運命の糸を切断する。最後のアトロポスは「不可避の者」の意味である。
残忍なアトロポスの手に鋏があるのを知りながら、どうすれば、「嬉々として生きる」ことができるだろうか?
(†心のデボーション01999)
† 心のデボーション 02000
「聖書はみな神の感動によるものにして、教誨と譴責と矯正と義を薫陶するとに益あり。」 Ⅱテモテ3:16 大正文語訳聖書
「聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたもので、人を教え、戒め、矯正し、義に基づいて訓練するために有益です。」 聖書協会共同訳聖書
「ヒエロニムス像」
ベツレヘムの「聖誕教会」の北隣にある「聖カテリーナ教会」はフランシスコ派修道院の教会で、その中庭に「ヒエロニムス像」がある。ヒエロニムスはヘブライ語聖書をラテン語に翻訳した(ヴルガータ)人物で、ローマの裕福な未亡人パウラが経済的支援をした。ヒエロニムスはパウラが死亡するとその骨を傍らに置いて翻訳を続けたという。「ヒエロニムス像の足元には一つの髑髏が置かれている。ヒエロニムスは教会の地下室で翻訳作業をしたという。
(†心のデボーション02000)
コメント