† 心のデボーション 01981
「ヨハネ答へて言ふ『人は天より與へられずば、何をも受くること能はず。』」 ヨハネ3:27 大正文語訳聖書
「ヨハネは答えて言った。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません。」 新改訳聖書
「天から与えられたもの」すべての問題は解決されるべきものではない。ただ味わうだけでよい場合もある。それは忌み嫌うよりも、親しむべきものである。解決するよりも「私のもの」とするために「天から与えられた」のである。未解決のままにしておくことが解決であることも少なくない。それらは生きることによって成熟する。人は受け取ることができるから、天はそれを与えられたのある。
(†心のデボーション01981)
† 心のデボーション 01982
「希望は恥を來らせず、我らに賜ひたる聖靈によりて神の愛われらの心に注げばなり。」 ロマ5:5 大正文語訳聖書
「この希望が失望に終わることはありません。私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」 聖書協会共同訳聖書
「主にある希望」
「While there’s life, there’s hope. 生命のある限り、希望はある」(ローマの作家テレンチウス Terence の言葉)
「希望があるとき、人は生きている」とも訳される。
「この希望が失望に終わることはありません」(ロマ5:5 聖書協会共同訳)は、新共同訳聖書は「希望はわたしたちを欺くことがありません」と訳す。
主にある希望は人に恥をかかせない。
(†心のデボーション01982)
† 心のデボーション 01983
「ここにイエス、ヨハネにバプテスマを受けんとて、ガリラヤよりヨルダンに來り給ふ」 マタイ3:13 大正文語訳聖書
「イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた」 新改訳聖書
「列に並ぶ」
我々はアウシュビッツの写真にガス室に向かう人の列を見た。「列に並ぶ」ことの恐怖を忘れることはできない。
「アウシュビッツの列」は現代にもそれとはわからないかたちで存在し、それに並ばないと不安になるように仕組まれている。それは「罪人の列」ではなく、「罪人が作った列」である。
その列にヨルダン川で「罪人の列」に並ばれたイエスを見出すことはできるのだろうか。
(†心のデボーション01983)
† 心のデボーション 01984
「我は柔和にして心卑ければ、我が軛を負ひて我に學べ、さらば靈魂に休息を得ん。」 マタイ11:29 大正文語訳聖書
「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」 新改訳聖書
「心優しく」
ギリシャ語の「心優しく」は πραΰς プラゆス で、「優しくふるまう」を意味する。精神的、内的な優しさをあらわすのは ἐπιείκεια エピエイケイア である。心根だけでなく、そこに行為がともなってはじめて優しさである。
長年負ってきた重荷は汚れている。イエス・キリストは私の汚れた重荷に手をのばし、優しく負われる。
ためらわずに近寄り、「汚れ」に優しくなりたい。
(†心のデボーション01984)
† 心のデボーション 01985
「また眞理を知らん、而して眞理は汝らに自由を得さすべし」 ヨハネ8:32 大正文語訳聖書
「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする。」 聖書協会共同訳聖書
「自由」
「真理はあなたがたを自由にする」(ヨハネ8:32 聖書協会共同訳聖書)
「自由にする έλευθερῶ」は「自由 ἐλεύθερος エれウてロス」から来たことばである。「自由 ἐλεύθερος エれウてロス」は「奴隷でない、束縛や制限を受けない人」すなわち「自由人」を意味することばである。そこから「真理はあなたがたを自由にする」は「真理はあなたがたを束縛するものから解き放つ」の意味である。
(†心のデボーション01985)
† 心のデボーション 01986
「そは之をとこしへに福ひなるものとなし聖顔のまへの歓喜をもて樂しませたまへばなり」 詩篇21:6 明治元訳聖書
「あなたは永遠の祝福を彼に与え/御前の喜びによって彼を楽しませる。」 詩篇21:7 聖書協会共同訳聖書
「不滅の者」
神は人を造られ、「不滅の者」として形造られ、「永遠の祝福」をもって祝福し、その「喜び」は「永遠に至るまで消え去ることがない」。
「この世に先立って、初めに/主は私を造られた。/私は、永遠に至るまで、消え去ることがない。」 ベン=シラの知恵24:9 聖書協会共同訳聖書
「神は人間を不滅の者として創造し/ご自分の永遠性の似姿として造られた。」 知恵の書2:23 聖書協会共同訳聖書
(†心のデボーション01986)
† 心のデボーション 01987
「なんぢら己がために財寶を天に積め、かしこは蟲と錆とが損はず、盜人うがちて盜まぬなり」 マタイ6:20 大正文語訳聖書
「富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない」 新共同訳聖書
「智者」
「Doctus in se semper divitias habet. 知者はみずからの中に富をもつ」 プラトン の言葉(『パイドルス』寓話集)
「富 dīvitiās」は「財産、富」の意味。智者はみずからの内に富を内に持つ。この富は失われることも、奪われることもない。
(†心のデボーション01987)
† 心のデボーション 01988
「おのおの己が事のみを顧みず、人の事をも顧みよ。」 ピリピ2:4 大正文語訳聖書
「自分のことだけでなく、他の人のことも顧みなさい。」 新改訳聖書
「虫が好かない」
心の中には一匹の虫が住んでいる。心の虫は好きでない人に出会うと、その人のすることは何でも嫌に見えてしまうらしい。
心の虫に「なぜその人が嫌いなの?」と尋ねてみると「それは、お前は認めないけれど、お前そのものだからさ」と答える。
「虫が好かない」と虫が知らせる時は、他の人のことを顧みる必要があるのかもしれない。隠れた「自分の嫌な部分」を他の人に見ているのである。
(†心のデボーション01988)
† 心のデボーション 01989
「即ちその跌倒る時には一箇の人その伴侶を扶けおこすべし 然ど孤身にして跌倒る者は憐なるかな之を扶けおこす者なきなり」 伝道4:10 明治元訳聖書
「たとえ一人が倒れても/もう一人がその友を起こしてくれる。/一人は不幸だ。倒れても起こしてくれる友がいない。」 聖書協会共同訳聖
「一緒に礼拝にゆく友」
「友」のヘブライ語 חָבֵר タベールには「一緒に礼拝をする者」の意味がある。「一緒に礼拝にゆく友は、たとえ、どちらか一人が倒れても、もう一人が起こしてくれる。」という意味である。
不幸なのは一緒に礼拝にゆく友のいない人だ。
(†心のデボーション01989)
† 心のデボーション 01990
「かれは義人のために聰明をたくはへ 直く行む者の盾となる」 箴言2:7 明治元訳聖書
「主は正直な人々のために健全な知恵を蓄え、誠実に歩む人々の盾となり」 フランシスコ会訳聖書
「盾」
神のうちには人間の歴史が始まって以来の「正直な人々のために健全な知恵」が蓄えられており「盾」となって人間を守られる。
「盾」は「大盾」で、飛び来る矢を防ぎ、振り下ろされる剣を受け止める。神の「知恵」は人間の全身を攻撃から守る。
「誠実に歩む人」とは「罪なく歩む人」の意である。神との調和のうちに歩む者の幸いがここにある。
(†心のデボーション01990)
コメント