心のデボーション197

デボーション1
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† 心のデボーション 01961

「われ我心に合ふ牧者を汝等にあたへん彼等は知識と明哲をもて汝等を養ふべし」 エレミヤ3:15 明治元訳聖書

「彼らは知識と分別をもってあなたがたを育てよう」

 「ぼく、やっていないよ」

三才児が「ぼく、やっていないよ」というとき、何かを隠していることがある。自分でもまずいことをしたという自覚はあるが、それへの罰を想像しているのかもしれない。

素直でないと厳しく追求すると、やがて手のこんだやり方で他人のせいにするようになるかもしれない。子どもに必要なのは罰ではなく、「ごめんなさい」といえば与えられる心からの許しではないか。

その「知識と分別」が子どもを育てる。

(†心のデボーション01961)

† 心のデボーション 01962

「太初に言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき」 ヨハネ1:1 大正文語訳聖書

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」 聖書協会共同訳聖書

 「すべての道の初め」

「主はその道の初めに私を造った/いにしえの御業の始まりとして。」 箴言8:22 聖書協会共同訳聖書

神は「すべての道の初めに、すべての御業の始まりとして、御子イエス・キリストを置かれる。

「万物は言によって成った。言によらずに成ったものは何一つなかった」 ヨハネ1:3 聖書協会共同訳聖書

(†心のデボーション01962)

† 心のデボーション 01963

「手には箕を持ちて禾場をきよめ、その麥は倉に納め、殼は消えぬ火にて燒きつくさん」 マタイ3:12 大正文語訳聖書

「そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」 新共同訳聖書

 「実」

何が実で、何が殻か? 実が何かを知るには、殻が何かをみる方法がある。遠くに吹き飛ばされたものが「殻」である。神が私から遠くに吹き飛ばされたものは、どんなに大切な「実」に思えても、「殻」である。

「殻」を取り除いて残ったものが「実」である。

(†心のデボーション01963)

† 心のデボーション 01964

「我すべての事に於て例を示せり、即ち汝らも斯く働きて、弱き者を助け、また主イエスの自ら言ひ給ひし『與ふるは受くるよりも幸福なり』との御言を記憶すべきなり」 使徒20:35 大正文語訳聖書

「受けるよりは与える方が幸いである」 新改訳聖書

 「与える行為」

人に与えることのできるものの中で幸いと言えるのは、ものではなく自分自身であろう。自分が差し出されているからこそ、与える行為から新しい関係も生まれてくる。

人は自分のうちにあるもの、自分に生きているものしか差し出すことはできない。いのちは、与えれば与えるほど豊かになる。

与えることに疲れたり、それによって自分が枯渇してしまうのは、本当の自分を差し出していないからである。

(†心のデボーション01964)

† 心のデボーション 01965

「ヱホバをおそるるは智慧のはじめなり これらを行ふものは皆あきらかなる聰ある人なり ヱホバの頌美はとこしへに失ることなし」 詩篇111:10 明治元訳聖書

「主を畏れることは知恵の初め/これを行う人は皆、優れた思慮を得る。/主の賛美はいつまでも続く。」 聖書協会共同訳聖書

 「思慮深い思い」

人生の問題に向き合って生きるには、常に反対側にあるものに目を注ぐ必要がある。

ベン=シラの知恵には、そうした思考を「滑らかな壁に彫り込まれた飾り模様のようだ」と言っている。

「分別ある思考に支えられた心は/滑らかな壁に彫り込まれた飾り模様のようなものだ。」 ベン=シラの知恵22:17 聖書協会共同訳聖書

「分別ある思考」はフランシスコ会訳聖書では「思慮深い思い」と訳される。

(†心のデボーション01965)

† 心のデボーション 01966

「彼は家人の爲に雪をおそれず 蓋その家人みな蕃紅の衣をきればなり」 箴言31:21 明治元訳聖書

「彼女は家の者のために雪を恐れない。家の者はみな、あわせの着物を着ているからだ。」 新改訳聖書

 「埴生の宿」

「埴生の宿」はジョン・ハワード・ペイネ John Howard Payne の詩 Home! Sweet Home! を里見義が作詞した名曲です。

’Mid pleasures and palaces though we may roam,
Be it ever so humble, There’s no place like home.
A charm from the skies Seems to hallow us there,
Which seek thro’ the world, is ne’er met with elsewhere.
Home, home, sweet sweet home,
There’s no place like home, there’s no place like home.

I gaze on the moon as I tread the drear wild,
And feel that my mother now thinks of her child;
As she looks on that moon from our own cottage door,
Thro’ the woodbine whose fragrance shall cheer me no more.
Home, home, sweet sweet home;
There’s no place like home, there’s no place like home.

An exile from home, splendor dazzles in vain,
Oh, give me my lowly thatched cottage again;
The birds singing gaily, that came at my call:
Give me them and that peace of mind, dearer than all.
Home, home, sweet sweet home,
There’s no place like home, there’s no place like home.

1 埴生(はにふ/はにゅう)の宿も 我が宿 玉の装い 羨(うらや)まじ
  のどかなりや 春の空 花はあるじ 鳥は友
  おゝ 我が宿よ たのしとも たのもしや
2 書(ふみ)読む窓も 我が窓 瑠璃(るり)の床も 羨まじ
  清らなりや 秋の夜半(よは/よわ) 月はあるじ 虫は友
  おゝ 我が窓よ たのしとも たのもしや

「埴生の宿」には、今もわが子を思う母がいる。

(†心のデボーション01966)

† 心のデボーション 01967

「わがなやみの日にわれ主をたづねまつれり 夜わが手をのべてゆるむることなかりき わがたましひは慰めらるるをいなみたり」 詩篇77:2 明治元訳聖書

「私の声よ、神に届け。/私は叫ぶ。/私の声よ、神に届け。/神は私に耳を傾けてくださる。」 聖書協会共同訳聖書

 「静かな叫び」

マルクス・トゥッリウス・キケロ の『カティリーナ弾劾』に、「Cum tacent, clamant.  彼等が沈黙しているとき、彼等は絶叫している」という。キケロがカティリーナを弾劾したとき、元老院議員たちは報復を恐れて沈黙するのを見て、「彼らは沈黙しているが、心の中では絶叫しているのだ」と言ったのである。

「静かな叫び」というものがある。

(†心のデボーション01967)

† 心のデボーション 01968

「また我等はもはや幼童ならず、人の欺騙と誘惑の術たる惡巧とより起る樣々の教の風に吹きまはされず、人を欺く悪賢い策略」 エぺソ4:14 大正文語訳聖書

「こうして、わたしたちはもはや子供ではないので、だまし惑わす策略により、人々の悪巧みによって起る様々な教の風に吹きまわされたり、もてあそばれたりすることがなく、」 口語訳聖書

 「白河夜船」

江戸時代に、行ったこともないのにさも見てきたようなふりをする男がいた。そこである人が「あなたは京に行ったそうだが、白河はどんなぐわいでした」と聞いた。男は困って「白河を渡ったのが夜で、寝込んでいてわからなかった」と答えたので、ウソがばれてしまう。白河は川の名ではなく白河天皇の御所のある地名だったのである。さて、知っていながら知らないふりをして男を試すのと、見てもいないのに見たふりをするのと、どちらが悪賢いだろうか。

(†心のデボーション01968)

† 心のデボーション 01969

「太初に言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき」 ヨハネ1:1 大正文語訳聖書

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」 聖書協会共同訳聖書

 「いのちと力の希望」

「この世に先立って、初めに/主は私を造られた。/私は、永遠に至るまで、消え去ることがない。」 ベン=シラの知恵24:9 聖書協会共同訳聖書

「〔私は、美しい愛と畏れ/知識と清い希望の母であり/主に選ばれ、永遠の命を受けた/私の子どもたちに、これを与える。〕」 ベン=シラの知恵24:18 聖書協会共同訳聖書

すべてに先だって、「知恵」が造られ、「知識と希望の母」として主に選ばれ永遠のいのちを受けた者に「いのちと力の希望」を与える。それは永遠に至るまで消え去ることがない。

(†心のデボーション01969)

† 心のデボーション 01970

「ヱホバ神其人に命じて言たまひけるは園の各種の樹の果は汝意のままに食ふことを得」 創世記2:16 明治元訳聖書

「神である主は、人に命じられた。「園のどの木からでも取って食べなさい。」 聖書協会共同訳聖書

 「人間の自由」

神は人間を創造されエデンの園の樹から自由にとって食べることを認められた。しかし、「善悪の知識の木」からはとって食べることを禁止された。(創世記2:17)

神は人間の自由をお認めになった。神は人間を、自ら「善悪の判断」をする存在としてお造りになったのである。

「主が、初めに人をお造りになったとき/判断は、彼の手に委ねられた。」 ベン=シラの知恵15:14 聖書協会共同訳聖書

(†心のデボーション01970)

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