† 心のデボーション 01951
「汝その地の穀物を穫ときには汝等その田野の隅々までを盡く穫可らず亦汝の穀物の遺穂を拾ふべからず」 レビ19:9 明治元訳聖書
「畑の隅々まで刈ってはならない。あなたの収穫の落ち穂を集めてはならない」
「落ち穂」
麦を刈り入れる時、最後に残った隅の部分は残しておかなければならなかった。落ち穂まで収穫しないのが定めであった。それらは貧しい人々のために畑に残したので歩く。取り尽くしてしまわないのが神を信じる民の証である。
ボアズはわざと束から穂を抜き落としてルツに拾わせている。貧しい人に恥ずかしい思いをさせまいとする気持ちがこのおきてを美しいものにしている。
(†心のデボーション01951)
† 心のデボーション 01952
「人なんぢらを會堂、或は司、あるひは權威ある者の前に引きゆかん時、いかに何を答へ、または何を言はんと思ひ煩ふな」 ルカ12:11 大正文語訳聖書
「会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。」 新共同訳聖書
「弥縫策」
一時逃れのとりつくろいを「弥縫(びほう)策」という。「弥縫」は「破れを縫ってつくろう」の意味で、一時逃れの策にすぎない。縫ったところから破れがひろがり、ひどいことになってしまう。
旧約外典ベン=シラの知恵には「罪深い人間は批判を受け付けず/望みどおりの言い訳を見つけてくる。」とある。(ベン=シラの知恵32: 17 聖書協会共同訳聖書)
本人にとっては「望みどおりの言い訳」であるが、傷口を広げる弥縫である。
(†心のデボーション01952)
† 心のデボーション 01953
「手には箕を持ちて禾場をきよめ、その麥は倉に納め、殼は消えぬ火にて燒きつくさん」 マタイ3:12 大正文語訳聖書
「そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」 新共同訳聖書
「消えない火」
「消えない火」の「消えない」はギリシャ語「 ἄσβεστος アスベストス 消えない」で、英語「アスベスト asbestos 石綿」は燃えにくいことから、名づけられた言葉である。
「私」について、神は「実と殻」を吹分け、「殻」は「消えない火」で焼かれる。人は何が「私」の「実」で、何が「殻」かは、決めつけないがよい。それは神のなさることである。自分に属するすべてを大事に生きることである。しかし、神が吹分けられたら、それが「殻」である。遠くに吹き飛ばされるのでそれと分かる。不必要な「殻」は神が焼かれる。
(†心のデボーション01953)
† 心のデボーション 01954
「何ゆゑ人に教へて己を教へぬか、竊(ぬす)む勿れと宣べて自ら竊(ぬす)むか」 ロマ2:21 大正文語訳聖書
「どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか」 新改訳聖書
「然(さ)りながら汝は人を教えて己を教えず」 ラゲ訳聖書
「問題を正す」
他人の間違いを正すことに異常に熱心な人がいる。何とか立ち直らせようとするが、その割りには成功しない。努力にもかかわらず成功しないのは、その人自身に何か「問違い」があって、本当に正さなければならないのは自分自身なのかもしれない。
他人のことで異常に燃える、そのところに自分の内的な問題がひそんでいることが少なくない。人よりも自分を正す。
(†心のデボーション01954)
† 心のデボーション 01955
「そは神ヱホバは日なり盾なり ヱホバは恩とえいくわうとをあたへ直くあゆむものに善物をこばみたまふことなし」 詩篇84:11 明治元訳聖書
「神である主は太陽、盾。/主は恵みと栄光を与え/全き道を歩む者に/良いものを惜しむことはありません。」 詩篇84: 12 聖書協会共同訳聖書
「良いもの」
人になにかを差し上げる時には、相手が受け取りやすいものを差し上げるがよい。こちらにとって「良い」と思うし、相手にとっても嬉しいと思うと感じられても、やがて相手が心の負担に感じるような時がある。「良いもの」とは相手が受け取りやすい形で差し上げるもののことである。
神の与えてくださる「良いもの」は、全き道を歩む者にはどこまでも受け取りやすい。
(†心のデボーション01955)
† 心のデボーション 01956
「今よりのち義の冠冕わが爲に備はれり。かの日に至りて正しき審判主なる主、これを我に賜はん、啻に我のみならず、凡てその顯現を慕ふ者にも賜ふべし。」 Ⅱテモテ4:8 大正文語訳聖書
「今や、義の冠が私を待っているばかりです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるでしょう。私だけでなく、主が現れるのを心から待ち望むすべての人に授けてくださるでしょう。」 聖書協会共同訳聖書
「最後の審判」
アルベルト・カミュ Albert Camus は『転落』の中で、「Do not wait for the last judgment. It takes place everyday. 最後の審判を待つな。それは毎日起こっている」と語る。
「犯罪は常に起こり、無実はめったに見つからない」というのである。「今」起きていることに目を閉じるなということだろうか?
(†心のデボーション01956)
† 心のデボーション 01957
「人の勞苦は皆その口のためなり その心はなほも飽ざるところ有り」 伝道6:7 明治元訳聖書
「人の労苦はすべて口のためである。/だが、それだけでは魂は満たされない。」 聖書協会共同訳聖書
「魂を耕す」
「Cultura animi philosophia est. 精神を耕すことが哲学である」 (キケロ『トゥスクルム荘対談集』2.13)
「Cultura animi 精神を耕す」の「Cultura」は英語のculture 「教養、文化、栽培」の語源で、「耕作、耕すこと」から来る。「animi」は「心、精神、魂」を意味する。「哲学」とは「心、精神、魂」を「耕す」作業であり、「文化」の基である。
(†心のデボーション01957)
† 心のデボーション 01958
「かつ天より聲出づ『なんぢは我が愛しむ子なり、我なんぢを悦ぶ』」 マルコ1:11 大正文語訳聖書
「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」
「リングクッション物語」
リングクッションは両の手のひらで支えられるほどの小さな白クッションで、結婚式ではこれに指輪を結んで運ぶ。
結婚した二人はこのクッションを大切にし、最初に生まれた子どもの枕にする。そして、子どもの成長の節目に取り出して、自分たちがどのように出会ったか、どんなにその子の誕生を待ったか、あなたは望まれて生まれたのだという物語を聞かせる。その子が結婚するとき、クッションは母親から子どもに手渡されていく。
(†心のデボーション01958)
† 心のデボーション 01959
「然ば我はわが口を禁めず 我心の痛によりて語ひ わが神魂の苦しきによりて歎かん」 ヨブ7:11 明治元訳聖書
「それゆえ、私は自分の口を抑えず/私の霊の苦悩をもって語り/私の魂の苦痛をもって嘆きます。」 聖書協会共同訳
「存在の苦悩」
ヨブは「自分の口を抑える」ことをせず、「霊の苦悩をもって語り」、「魂の苦痛をもって嘆く」。
「霊 רוּחַ の苦悩」は「霊、風、息」をあらわし、「霊、心、魂の苦悩」である。「魂の苦痛 נֶפֶשׁ ネフェシュ」は「たましい、命、自己の苦痛」である。存在の苦悩である。
(†心のデボーション01959)
† 心のデボーション 01960
「なんぢら人を審くな、審かれざらん爲なり」 マタイ7:1 大正文語訳聖書
「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである」 新共同訳聖書
「軽率に人をさばくな」
「軽率に人をさばくな」(トマス・アクィナス「キリストのまねび」より)
他人の行為を裁くこと慎み、むしろ、自分自身に目を向けよ。だが、いかなる人も偏見なしに自分を正しく裁くことはできない。軽率に自分を裁くこともしてはいけない。
(†心のデボーション01960)
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