心のデボーション195

デボーション1
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† 心のデボーション 01941

「ヱホバ、エジプト王パロの心を剛愎にしたまひたれば彼イスラエルの子孫の後を追ふイスラエルの子孫は高らかなる手によりて出しなり」 出エジプト14:8 明治元訳聖書

「しかしイスラエル人は臆することなく出て行った」 新改訳聖書

 「意気揚々と」

イスラエルはエジプトから「臆することなく」「意気揚々と」出発する。しかし、パロは戦車と騎兵を整え、エジプトの全軍を率いてイスラエルの追跡を開始した。

「臆することなく」の原文は直訳で「高い手をもって」ということばである。フランシスコ会訳は、「御手に戦ってもらいながら」と訳す。

主の御手に戦っていただくところでは、私はたとえパロの全軍に追跡されても、意気揚々としていよう。

(†心のデボーション01941)

† 心のデボーション 01942

「今いまし、昔いまし、後きたり給ふ主なる全能の神いひ給ふ『我はアルパなり、オメガなり』」 黙示1:8 大正文語訳聖書

「今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者である神、主がこう言われる。『私はアルファであり、オメガである。』」 聖書協会共同訳聖書

 「永遠の神」

神は「アルファ<初め>であり、オメガ<終わり>である」。すべての事象に「初め」と「終わり」がある。終わりのないものが永遠ではない。「永遠の神」に御業が「永遠」である。

(†心のデボーション01942)

† 心のデボーション 01943

「手には箕を持ちて禾場をきよめ、その麥は倉に納め、殼は消えぬ火にて燒きつくさん」 マタイ3:12 大正文語訳聖書

「そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」 新共同訳聖書

 「麦と殻」

何が「麦」で、何が「殻」かは、神に尋ねなければならない。人の「麦」と「殻」は、しばしば、神の「麦」と「殻」ではない。思わないものが「実」として神の倉に納められ、意外なものが「殻」として吹き分けられる。

そこで、人は自らに属するものをすべて価値あるものとして扱うべきである。価値なしとして捨てようとしたものの中に宝が隠されている。「実」と考え大切にしたものが「殻」であり、「殻」として見捨てたものが取り入れるべき「実」であることがある。

(†心のデボーション01943)

† 心のデボーション 01944

「狗のかへり來りてその吐たる物を食ふがごとく 愚なる者は重ねてその痴なる事をおこなふ」 箴言26:11 明治元訳聖書

「犬が自分の吐いた物に帰ってくるように、愚かな者は自分の愚かさをくり返す」 新改訳聖書

 「罪意識」

ひき逃げの犯人が、わざわざ現場の様子を見に戻って逮捕されることがある。犯罪者が現場に戻りたがるのは、犯した罪が大したことではなかったと確かめたいからではないか。

大きな騒ぎになっていなければ安心する。しかし、それで罪意識が消えることはない。ダビデもバテ・シェバとの罪を言いあらわし、許されるまでは「一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました」と告白している。(詩篇 33:3)

(†心のデボーション01944)

† 心のデボーション 01945

「愛はすべての愆を掩ふ」 箴言10:12 明治元訳聖書

「愛はすべてのとがをおおう」 口語訳聖書

 「愛し合う二人」

愛し合う二人は、愛によってそれぞれが以前の自分とは違う自分を生きるようになる。自分をそのように変えるのは愛しかない。もし、愛していると言いながら、それまでの自分は変えないというのなら、その愛はいつか二人の関係を壊すだろう。

(†心のデボーション01945)

† 心のデボーション 01946

「われは眞實のみちをえらび 恒になんぢのもろもろの審判をわが前におけり」 詩篇119:30 明治元訳聖書

「私は真実の道を選び取り、あなたのさばきを私の前に置きました」 新改訳聖書

 「真実の進行」

「Truth is on the march; nothing can stop it now. 真実が進行中である。いまや何ものもそれを止めることはできない」 エミール・ゾラ Emile Zola (諺辞典より)

人生は如何に偽ろうと、「真実」が進行するのを止めることはできない。進行する「真実」を受け止めるのにも「時」がある。「時」は「真実」の中にある。

(†心のデボーション01946)

† 心のデボーション 01947

「かく苦心するは、彼らが心慰められ、愛をもて相列り、全き穎悟の凡ての富を得て、神の奧義なるキリストを知らん爲なり」 コロサイ2:2 大正文語訳聖書

「それは彼らが、心を励まされ、愛によって結び合わされ、豊かな理解力を十分に与えられ、神の奥義なるキリストを知るに至るためである」 口語訳聖

 「豊かな理解力」

アウレリウス・アウグスティヌス の言葉に「Credo ut intelligam. 私は理解するために信じる」と言われているという。

理解と信じることは一つである。理解できないままに信じるのも、「一つの理解」だからである。

(†心のデボーション01947)

† 心のデボーション 01948

「汝等竊むべからず偽べからず互に欺くべからず」 レビ記19:11 明治元訳聖書

「欺いてはならない」 新改訳聖書

 「痛いふり」

ウマは利口な動物である。ちよっと調教が厳しくなると、すぐに足が痛むふりをしたりするという。痛がると、その日の調教がお休みになるのを知っているのである。本当に痛いかどうかは触れてみればわかる。

こういうズルを見抜いたら「キッパリとしかる」のが大切だそうである。ウマにも、自分がなぜしかられるのかがわかっていて、少々厳しくしかっても問題はないとのことである。

(†心のデボーション01948)

† 心のデボーション 01949

「かくて彼その處の名をマツサと呼び又メリバと呼り是はイスラエルの子孫の爭ひしに由り又そのヱホバはわ れらの中に在すや否と言てヱホバを試みしに由なり」 出エジプト17:7 明治元訳聖書

「彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、主を試したからである。」 新共同訳聖書

 「メリバ 争い」

エジプトを脱出したイスラエルの民はシンの荒野で飲み水が枯渇した。すると、民は「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言ってモーセと争った。

民とモーセの争いは「神との争い」であり、人の争いは「神との争い」にはじまる。

モーセはその地を「マサ 試み」、「メリバ 争い」と呼んだ。「神への試み」から「争い」が発生する。

(†心のデボーション01949)

† 心のデボーション 01950

「もし人なんぢらにつげて巫女および魔術者のさえづるがごとく細語がごとき者にもとめよといはば民はおのれの神にもとむべきにあらずや いかで活者のために死者にもとむることを爲んといへ」 イザヤ8:19 明治元訳聖書

「人々は必ずあなたたちに言う。「ささやきつぶやく口寄せや、霊媒に伺いを立てよ。民は、命ある者のために、死者によって、自分の神に伺いを立てるべきではないか」と。」 新共同訳聖書

 「死者の声」

「口寄せや、霊媒に伺いを立てる」ことは「命ある者のために、死者によって、伺いを立てる」に等しいとイザヤは告げる。死者に道を尋ねるべきではない。生きている者のことは生きている「おしえと証し」に尋ねるべきである。(イザヤ8:20)

(†心のデボーション01950)

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