† 心のデボーション 01931
「然ば汝の心より憂を去り 汝の身より惡き者を除け 少き時と壯なる時はともに空なればなり」 伝道11:10 明治元訳聖書
「あなたの心から悲しみを除き、あなたの肉体から痛みを取り去れ」 新改訳聖書
「メダカの池」
「メダカの池」と呼んでいるが、使われなくなった火バチだったり、大型のポリ容器である。
水の様子をみればメダカのコンディションがわかる。メダカが元気だと水はきれいに澄み、健康を損なうと水もにごる。メダカのいない池はどんなに水草を入れても、水は腐る。
小さくても動くものがあれば、水は生きる。感情の小さな揺らぎを受け入れて日常は澄むのかもしれない。
(†心のデボーション01931)
† 心のデボーション 01932
「それ人の世にあるは戰鬪(たたかひ)にあるがごとくならずや 又其日は傭人(やといびと)の日のごとくなるにあらずや」 ヨブ記7:1 明治元訳聖書
「地上の人には苦役があるではないか。その日々は日雇い人の日々のようではないか。」 新改訳聖書
「人生の戦い」
ヨブは、「人生の苦役は日雇い人の日々のようだ」と言う。その日の「苦役」がすめば、翌日には翌日の苦役がある。新共同訳聖書は「この地上に生きる人間は兵役にあるようなもの。傭兵のように日々を送らなければならない」と訳す。「苦役」は「兵役」であり、地上に生きる限り続く兵役である。この人生にどのような意味があるのかとヨブは神に問う。何とかして神と語ろうとヨブは身悶えする。
(†心のデボーション01932)
† 心のデボーション 01933
「手には箕を持ちて禾場をきよめ、その麥は倉に納め、殼は消えぬ火にて燒きつくさん」 マタイ3:12 大正文語訳聖書
「そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」 新共同訳聖書
「神の脱穀場」
人生は「神の脱穀場 ἅλων ハろーン」である。収穫した穀物で充ちている。神は「箕 ptu,on プツオン」を手に仕事をされる。「吹き分け」は過酷な作業ではなく、収穫の喜びになくてはならない仕事である。人生の後半では、脱穀場における神の仕事を目の当たりにすることになる。「収穫の主」(マタイ9:38)と生きる。
(†心のデボーション01933)
† 心のデボーション 01934
「我心を盡し智慧をもちひて天が下に行はるる諸の事を尋ねかつ考覈たり此苦しき事件は神が世の人にさづけて之に身を勞せしめたまふ者なり」 伝道1:13 明治元訳聖書
「これは、神が与えたつらい仕事だ」 新改訳聖書
「ひじり」
漢字で「聖」は「ひじり」とも読む。それは「日知り」から来たものだそうである。時を知り、物事の全体を知る人をいう。伝道者も「私は天の下で行われるいっさいのことについて、知恵を用いで一心に尋ね、探り出そうとした」と語る。
「時を知り」「物事の全体を知る」のが、デボーションの目的である。伝道者は、「それは、神が与えた、つらい仕事だ」と告白する。しかし、そのつらさには、それにまさる喜びがある。
(†心のデボーション01931)
† 心のデボーション 01935
「われ書をもて汝らを憂ひしめたれども悔いず、その書の汝らを暫く憂ひしめしを見て、前には悔いたれども今は喜ぶ」 Ⅱコリント7:8 大正文語訳聖書
「あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、わたしは後悔しません。確かに、あの手紙が一時にもせよ、あなたがたを悲しませたことは知っています。たとえ後悔したとしても」 聖書協会共同訳聖書
「涙の手紙」
コリントの教会にはユダヤ教主義者がパウロに反対し、その勢力を強めていた。パウロは心を痛めて、コリント人への手紙を送った。新約聖書にあるⅠコリント・Ⅱコリントの他に、パウロは第三の手紙「涙の手紙」を書いたことが知られている。(Ⅱコリント2:4) 「涙の手紙」はコリントの人々を悲しませることになったが、パウロはそれを「後悔はしていない」と書き送る。それはコリントの人々の悲しみは「神の御心に添う」ものであったので、彼らを「悔い改め」に導いたからである。
「涙の手紙」を送ることがあっても、「後悔」はすべてのことが明らかになるまでとっておくがよい。「今は喜んでいる」という時が巡ってくる。
(†心のデボーション01931)
† 心のデボーション 01936
「ユダの一切の邑々より崇邱と日の像とを取除けり而して國は彼の前に平穩なりき」 Ⅱ歴代14:5 明治元訳聖書
「彼は、ユダに砦の町を築いた。主が彼に安らぎを与えられ、何年もの間、この地は平穏で戦争がなかったからである。」 聖書協会共同訳聖書
「戦争と信仰」
Talleyrand(タレーラン)は「War is much too serious a thing to be left to military man. 戦争は軍人に任せるには、あまりにも深刻なことだ。」と言ったという。
戦争は経済的原因ばかりでなく、信仰的原因が少なからず存在する時代になった。平和をもたらすべき宗教が新たな民族的、人間的対立をもたらし、ついには武器をもって戦うに至っていることほど悲しいことはない。だが、その解決には、信仰者がそれぞれの信仰の根源を問うしかない。
「戦争や災難が神々に降りかかると、祭司たちは神々を抱えて、どこに隠れようかと互いに案じます。」旧約外典 エレミヤの手紙48節 聖書協会共同訳聖書
(†心のデボーション01931)
† 心のデボーション 01937
「テオピロ閣下よ、汝の教へられたる事の慥なるを悟らせん爲に、これが序を正して書き贈るは善き事と思はるるなり。」 ルカ1:4 大正文語訳聖書
「お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。」 新共同訳聖書
「確実なもの」
「不確実なものを求める間、確実なものを失う Certa amittimus dum incerta petimus.」(ティトゥス・マッキウス・プラウトゥス の言葉 「ラテン語諺集」より)
確信の持てないままに戦えば敗北する。しかし、「不確実」なものに目を閉じて得られる確信は、更なる敗北をもたらすだろう。不確実なものを求めている間は、確実なものは何一つ現れない。
ルカは受け取る教えが「確実 ἀσφάλεια 正確」であることを分かって欲しいと書き送った。
(†心のデボーション01931)
† 心のデボーション 01938
「われ汝の事を耳にて聞ゐたりしが今は目をもて汝を見たてまつる」 ヨブ42:5 明治元訳聖書
「しかし、今、この目であなたを見ました」 新改訳聖書
「植物の目」
植物は目や鼻をもっているに違いない。それもかなりはっきり見える目と、上等な鼻である。
ある品質のランは、メスのミツバチそっくりの花を咲かせる。形ばかりでなく、そっくりの匂いまでだすから、オスはメスと間違えてしまう。
ヨブは神に「今、この目であなたを見ました」と告白する。植物の目にも神が見えているのかもしれない。
(†心のデボーション01931)
† 心のデボーション 01939
「汝ら感謝しつつ目を覺して祈を常にせよ」 コロサイ4:2 大正文語訳聖書
「目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい」 新共同訳聖書
「胸から離れないもの」
「I do not know why I am so sad; there is an old fairy tale that I cannot get out of my mind. なぜこんなに悲しいのか わたしはわからない遠い昔の物語が 胸から離れない」(Heinrich Heine ハイネ)
胸からいつになっても離れない「an old fairy tale おとぎ話、作り話」というものがある。悲しくもあり、懐かしくもあり、「頭から離れないもの」は大切にするがよい。
(†心のデボーション01931)
† 心のデボーション 01940
「若き者よ、なんぢら長老たちに服へ、かつ皆たがひに謙遜をまとへ『神は高ぶる者を拒ぎ、へりくだる者に恩惠を與へ給ふ』」 Ⅰペテロ5:5 大正文語訳聖書
「同じように、若い人たち、長老に従いなさい。皆互いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら、/「神は、高慢な者を敵とし、/謙遜な者には恵みをお与えになる」からです。」 新共同訳聖書
「謙遜な者」
神は「高ぶる者の敵」となられ、「謙遜な者に恵み」となられる。
「謙遜を身につける ἐγκομβόομαι」は「κομβός 結びつける」からきたことばで、「身に結び付ける、身にまとう」の意味である。
「謙遜」を身に結びつけよ。
(†心のデボーション01940)
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