心のデボーション193

デボーション1
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† 心のデボーション 01921

「ヱホバを畏るるとは惡を憎むことなり 我は傲慢と驕奢 惡道と虚偽の口とを憎む」 箴言8:13 明治元訳聖書

「ねじれたことばを憎む」 新改訳聖書

「ひねくれた口とを憎む」 フランシスコ会訳聖書

 「ねじれたことば」

中学生の頃、教会で婦人伝道師に「先生はお姫様みたい」といったら、「どうして」としつこく聞かれた。つい、「いつも同じ服を着ているから」と答えたところ、「男はジェントルマンでなければいけません。ことばは人格です」ときつく叱られた。

言葉は人格の装いである。

言葉を変えることによって人間関係をよくすることもできる。ねじれた言葉はジェントルマンにふさわしくない。

(†心のデボーション01921)

† 心のデボーション 01922

「汝らを召して其の子われらの主イエス・キリストの交際に入らしめ給ふ神は眞實なる哉。」 Ⅰコリント1:9 大正文語訳聖書

「神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです」 新共同訳聖書

 「神の真実から」

人は自分が真実に決定的に欠けていると知るにいたって、はじめて、神の召しを知る。どれほど小さな真実であっても、「神の真実」から来ないものは一つとしてない。

(†心のデボーション01922)

† 心のデボーション 01923

「彼は聖靈と火とにて汝らにバプテスマを施さん」 マタイ3:11 大正文語訳聖書

「その方は聖霊と火とによって、あなたがたに洗礼をお授けになる」 フランシスコ会訳聖書

 「聖霊のバプテスマ」

ヨハネは自らのバプテスマを「水のバプテスマ」と呼び、イエスは「聖霊と火でバプテスマを施す」と言った。

「火」は「聖霊」の象徴であり、「火のバプテスマ」も「聖霊のバプテスマ」も同じ意味である。

「聖霊と火のバプテスマ」を使徒2:1∼44との関連から、「水のバプテスマ」と別の霊的体験とする信仰の立場もある。

だが、「御霊は一つ」「バプテスマは一つ」である。

「我らはユダヤ人・ギリシヤ人・奴隷・自主の別なく、一體とならん爲に、みな一つ御靈にてバプテスマを受けたり。而してみな一つ御靈を飮めり」Ⅰコリント12:13 大正文語訳聖書

(†心のデボーション01923)

† 心のデボーション 01924

「人もし汝に一里ゆくことを強ひなば、共に二里ゆけ」 マタイ5:41 大正文語訳聖書

「あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい」 新改訳聖書

 「したたかな行為」

1ミリオンは約1500メートルである。昔、ローマ兵は必要に応じて、人々を強制的にかり出すことができた。何かを担いで1ミリオン運べと命じられたら、それを拒むことはできない。

しかし、イエスは1ミリオン強いられたら2ミリオン行けと教えられる。強いられたら、その倍すればよいというのではなく、強制された1ミリオンよりも自発的な2ミリオンの方がよいといわれるのである。

心までは強制されないしたたかな行為である。

(†心のデボーション01924)

† 心のデボーション 01925

「凡そイエスを神の子と言ひあらはす者は、神かれに居り、かれ神に居る。」 Ⅰヨハネ4:15 大正文語訳聖書

「だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます」 新改訳聖書

 「神の中にいる」

ギリシャ語で「ἐν θεός 神の中にいる」は、霊感を与えられた人の「感動、熱情、熱狂」をあらわす。この「熱情」は「希望」を生み出す。

私が神の中にいるとき、神は私の中におられる。

(†心のデボーション01925)

† 心のデボーション 01926

「然り、我はわが主キリスト・イエスを知ることの優れたるために、凡ての物を損なりと思ひ、彼のために既に凡ての物を損せしが、之を塵芥のごとく思ふ」 ピリピ3:8 大正文語訳聖書

「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、」 新共同訳聖書

 「意味の深みへ」

キリストを知ることのすばらしさに比べれば、すべてのものは「塵芥(ちりあくた)」のごとくである。

すべてのものを「捨てる」のがよいのではない。すべてのものに意味を与え給うキリストを知り、すべてのもののもつ本来の意味を知ることを喜ぶのである。

(†心のデボーション01926)

† 心のデボーション 01927

「そは神には偏り視給ふこと無ければなり」 ロマ2:11 大正文語訳聖書

「神は人を分け隔てなさいません」 新共同訳聖書

 「偏り見る」

「分け隔て προσωπολημψία」は「πρόσωπον プロソーポン 顔、目 + λαμβάνω らムバノー 取る」からきている。神はユダヤ人であれギリシャ人であれ、人を「顔で判断」し「分け隔て」されることがない。

「どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。」使徒10:35 新共同訳聖書

(†心のデボーション01927)

† 心のデボーション 01928

「人は熱火を踏て其足を焚れざらんや」 箴言6:28 明治元訳聖書

「また人が、熱い火を踏んで、その足が焼けないだろうか」 新改訳聖書

 「ゆで小豆」

昔、可愛い女房がいながら、毎晩、別の女のところに通う夫がいた。嫉妬の炎は女房の胸に燃えた。女房は、夫がゆで小豆が好きなのを思いだし、その胸に小豆を抱いて寝た。

毎晩、やわらかすぎもせず、かたすぎもしない、ふっくらと煮えた小豆に、夫はどうやって煮たのかと尋ねた。すべてを知った夫は別の女と別れ、女房のところに帰ってきたという。焼き餅を焼くのではなく、ふっくらと小豆を煮るという方法もある。

(†心のデボーション01928)

† 心のデボーション 01929

「なんぢらの年老るまで我はかはらず白髮となるまで我なんぢらを負ん 我つくりたれば擡(もた)ぐべし我また負ひかつ救はん」 イザヤ46:4 明治元訳聖書

「あなたがたが年老いるまで、私は神。/あなたがたが白髪になるまで、私は背負う。/私が造った。私が担おう。/私が背負って、救い出そう。」 聖書協会共同訳

 「白髪になるまで」

「Every man desires to live long; but no man would be old. 誰でも長く生きたいと願う。しかし誰も老いたがらない」(ジョナサン・スウィフト Johathan Swiftの言葉)

だが、もし私が白髪になるまで、神が私を肩に担ぎ、背中に負って、お救いくださるなら、誰が老いることを厭うだろうか?

(†心のデボーション01929)

† 心のデボーション 01930

「斧ははや樹の根に置かる。されば凡て善き果を結ばぬ樹は、伐られて火に投げ入れらるべし」 ルカ3:9 大正文語訳聖書

「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」 新共同訳聖書

 「斧」

良い実を結ぶためには「斧」を木の根元に置くがよい。だが、切る枝を誤れば、切るべきでない枝を落とし、切るべき枝を残してしまう。「斧」は主の御手に委ねよ。主が切り給う枝は、たとえ葉が茂っていても実を結ぶことはない。

(†心のデボーション01930)

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