† 心のデボーション 01911
「(京まうでの歌) ああヱホバよわれふかき淵より汝をよべり」 詩篇130:1 明治元訳聖書
「主よ。深い淵から、私はあなたを呼び求めます。主よ。私の声を聞いて下さい」 新改訳聖書
「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます」 新共同訳聖書
「深い淵の底から」
人が意表をつくような行動に出るときは、その行動の異様さにとらわれないようにしたい。
本人の心の奥に、何とかして伝えたい思いがある。それをことばで適切に表現できないために、そのように行動するのかもしれない。「深い淵の底」から「私の声を聞いて」と叫んでいるのだ。
このとき、「深い淵の底」に耳を傾ける人が傍にいれば、心はいやされ、問題の行動はおさまる。
「深い淵の底」からの声は、しばしば無言である。
(†心のデボーション01911)
† 心のデボーション 01912
「相互に心を同じうし、高ぶりたる思をなさず、反つて卑きに附け。なんぢら己を聰しとすな」 ロマ12:16 大正文語訳聖書
「互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません」 新共同訳聖書
「低い人々と交わる」
「高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい」。すなわち、自分を高くせず、自分自身に順応しせよ。自分を智者とすることなく、低き者とせよ。自分を引く気に置くとは、他者を高きに置くことである。自身の内に低きを見出し、他者の内に高きを見出せ。
(†心のデボーション01912)
† 心のデボーション 01913
「夕餐より起ちて上衣をぬぎ、手巾をとりて腰にまとひ、尋(つい)で盥(たらひ)に水をいれて、弟子たちの足をあらひ、纏(まと)ひたる手巾にて之を拭ひはじめ給ふ」 ヨハネ13:4~5 大正文語訳聖書
「食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた」 新共同訳聖書
「洗足」
バプテスマのヨハネはイエスを「我より後にきたる者は、我よりも能力(ちから)あり、我はその鞋(くつ)をとるにも足らず」(マタイ3:11 大正文語訳聖書)と告白した。しかし、そのイエスは最後の晩餐の場で弟子たちの足から「鞋(くつ)」を脱がせ、水で足を洗い、手ぬぐいで拭われた。(ヨハネ13:4~5)
バプテスマのヨハネが見出したイエスの「能力(ちから)」は、屈んで弟子の足から靴をぬがせ、足を洗われたことである。昼間の旅で汚れた私の足を、イエス浄めたもう。
(†心のデボーション01913)
† 心のデボーション 01914
「即ち汝の神ヱホバを愛してその言を聽き且これに附從がふべし斯する時は汝生命を得かつその日を永うすることを得ヱホバが汝の先祖アブラハム、イサク、ヤコブに與へんと誓ひたまひし地に住ことを得ん」 申命30:20 明治元訳聖書
「確かに主はあなたのいのちであり、あなたは主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地で、長く生きて住む」 新改訳聖書
「主が与えると誓われた地で」
デボーションで最も大切なテーマの一つは「自分の人生をどう生きるか」という問いである。
これは思索というよりも、祈りの課題である。
聖書は「主はあなたのいのち」と告げる。自分の人生をつまらないとしか思えないのは、まだ、その価値に気づいていないからである。神がつくられたもので「つまらないもの」など一つもない。
私は、主が与えると誓われた「私という地」で長く生きて住もう。
(†心のデボーション01914)
† 心のデボーション 01915
「惡事をはかる者の心には欺詐あり 和平を謀る者には歓喜あり」 箴言12:20 明治元訳聖書
「悪を耕す者の心には裏切りがある。平和を勧める人の心には喜びがある」 新共同訳聖書
「和をはかる」
「和なるものは、感じて遂に通ずるものを言うなり」(近思録四)感じて遂に天下の故(こと)に通じる心を「和」という。
心が天と地に通じる思いをもって「和」をはかるのでなければ、人と和らぐことはできまい。
(†心のデボーション01915)
† 心のデボーション 01916
「ヤハよなんぢの懲めたまふ人なんぢの法ををしへらるる人は さいはひなるかな」 詩篇94:12 明治元訳聖書
「いかに幸いなことでしょう。主よ、あなたに諭され、あなたの律法を教えていただく人は」 新共同訳聖書
「真理に教えていただく人」
「比喩や過ぎ行く言葉によらず、真理そのものによって教えられる人は幸いである」、「暗くまた隠された事柄について…、奇妙で有害なことに心を注ぐことはこの上もない愚かである」 (トマス・ア・ケンピス「キリストにならいて」)
真理そのものの教える「知恵」に学べ。
(†心のデボーション01916)
† 心のデボーション 01917
「戰闘の日のために馬を備ふ されど勝利はヱホバによる」 箴言21:31 明治元訳聖書
「人は戦いの日のために馬を備える。/しかし勝利は主による。」 聖書協会共同訳
「二度目の勝利」
「勝利において己に打ち勝つ者は二度勝利する Bis vincit, qui se vincit in victoria.」(プブリリウス・シルス の言葉)
一度は相手との戦いに、そして一度は勝利した自分の心との戦いで。勝利した自分に打ち勝つのは相手との戦いに勝つよりも困難な戦いかもしれない。すべての勝利は神による。
(†心のデボーション01917)
† 心のデボーション 01918
「また恩惠をもて年の冕弁(かんむり)としたまへり なんぢの途には膏したたれり」 詩篇65:11 明治元訳聖書
「あなたは、その年に、御恵みの冠をかぶらせ、あなたの通られた跡には、あぶらがしたたっています」 新改訳聖書
「浦島ジレンマ」
浦島太郎が龍宮城から帰ってみると何もかもが変わっていた。何しろ、龍宮城の一日はこちらの十年だったのである。
時代に取り残されて生きるか、玉手箱を開けて時代にふさわしく変わるか、どちらが幸せだろうか。
神は、その年ごとに「実りの冠」をくださる。年ごとに、それを受け取っていれば、「玉手箱」など必要ない。
神の通られた「年」の跡にはあぶら滴り、地は羊の群れを着ている。(詩篇65:9~13)
(†心のデボーション01918)
† 心のデボーション 01919
「然ば我はわが口を禁めず 我心の痛によりて語ひ わが神魂の苦しきによりて歎かん」 ヨブ7:11 明治元訳聖書
「それゆえ、私は自分の口を抑えず/私の霊の苦悩をもって語り/私の魂の苦痛をもって嘆きます。」 聖書協会共同訳
「青年期は大失敗」
「Youth is a blunder; Manhood a struggle; Old Age a regret. 青年期は大失敗、中年期は苦闘、老年期は後悔」 -Benjamin Disraeli (19世紀、イギリスの政治家・小説家Benjamin Disraeli ベンジャミン・ディスレイリーの言葉)
大失敗のない青年期は、奮闘のない中年期を経て、後悔のない老年期を迎えるだろう。「後悔のない老年期」は抜け殻のようなものである。
(†心のデボーション01919)
† 心のデボーション 01920
「神を知りつつも尚これを神として崇めず、感謝せず、その念は虚しく、その愚なる心は暗くなれり。」 ロマ1:21 大正文語訳聖書
「なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。」 新共同訳聖書
「心の闇」
「神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもしない」知というものがある。彼らは、「自分では知者であると言いながら」、自らを「愚かな者とする」のである。(ロマ1:22)その闇は深い。
(†心のデボーション01920)
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