心のデボーション191

デボーション1
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† 心のデボーション 01901

「イエス之を見、いきどほりて言ひたまふ『幼兒らの我に來るを許せ、止むな、神の國は斯くのごとき者の國なり』」 マルコ10:14 大正文語訳聖書

「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません」 新改訳聖書

 「小さな変革者」

子どもは生を根源から変えようとして問題をおこすことがある。大人は自分の秩序が破壊されることに怯えて力で押え込もうとする。それもあって、大人と子どもは内的にも外的にも危機にさらされることになる。

子どもはみな神からつかわされた生の変革者である。大人は子どもに導かれてイエスのところに来るのかもしれない。

(†心のデボーション01901)

† 心のデボーション 01902

「かれは義人のために聰明をたくはへ 直く行む者の盾となる」 箴言2:7 明治元訳聖書

「主は正しい人のために力を/完全な道を歩く人のために盾を備えて」 新共同訳聖書

 「修羅」

昔、築城などに使う大石を運ぶ木そりは「修羅」と呼ばれた。「修羅」は仏法の守護神である「阿修羅」からきたもので、「阿修羅」が何物にも動かしがたい神帝釈天と戦い動かしたところから、動かしがたいものを動かす木そりを「修羅」と呼ぶようになった。ちなみに激しい戦闘の場を修羅場と呼ぶ。

主は正しい人の手に、信じがたいものを動かすために、「修羅」を持たせてくださるのだろうか?

(†心のデボーション01902)

† 心のデボーション 01903

「彼は必ず盛になり、我は衰ふべし」 ヨハネ3:30 大正文語訳聖書

「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」 新共同訳聖書

 「ヨハネの喜び」

ヨハネはバプテスマを受けるために集まった人々に「自分より優れた方」を紹介する。ヨハネは自身が「求道者」だった。人々はヨハネから去り、イエスに従った。しかし、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」ヨハネ3:30 というのがヨハネの「喜び」であった。

(†心のデボーション01903)

† 心のデボーション 01904

「されどイエス默し居給ひたれば、大祭司いふ『われ汝に命ず、活ける神に誓ひて我らに告げよ、汝はキリスト、神の子なるか』」 マタイ26:63 大正文語訳聖書

「しかし、イエスは黙っておられた」 新改訳聖書

「イエズス黙し居たまえば」 ラゲ訳聖書

 「黙し居る」

イエスを死刑にするために、悪質な偽証者が集められた。しかし、イエスは沈黙される。    

「黙っておられた」ということばには、無言でいることと同時に心が平穏であることが含まれている。黙することはできても、心が波立つのは「黙し居る」ことではない。          

平穏な心が、告発に沈黙をもって受け止める。すると、告発のことばは告発する者に帰っていく。

(†心のデボーション01904)

† 心のデボーション 01905

「耳ある者は御靈の諸教會に言ひ給ふことを聽くべし、勝を得る者には我かくれたるマナを與へん、また受くる者の外たれも知らざる新しき名を録したる白き石を與へん」 黙示2:17 大正文語訳聖書

「耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者には隠されていたマンナを与えよう。また、白い小石を与えよう。その小石には、これを受ける者のほかにはだれにも分からぬ新しい名が記されている」 新共同訳聖書

 「新しい名」

「勝を得る者」には神からの「隠れたマナ」が与えられる。「隠れたマナ」を食べる者には白い小石が与えられ、その白い小石には、「受けた者にしかわからない新しい名」が刻まれている。

神は「私にしかわからない新しい名」をもって私を呼び給うのである。「新しい名」は耳をすませば聞こえてこよう。

(†心のデボーション01905)

† 心のデボーション 01906

「萬の物は勞苦す 人これを言つくすことあたはず 目は見に飽ことなく耳は聞に充ること無し」 伝道1:8 明治元訳聖書

「すべての事はものうい。人は語ることさえできない。目は見て飽きることもなく、耳は聞いて満ち足りることもない」 新改訳聖書

 「物憂い」

「すべてのことは物憂い」と伝道者はいう。「物憂い יָגֵעַ ヤアゲア」は「へとへとに疲れる」の意味。すべてのことが物憂く、それを言い尽くすことができない。目は見ても満足できず、耳は聞いても充たされない。

何故か? 目は見ても「新しいもの」が見えす、耳は聞いても「新しいことば」が聞こえないからだ。

目に見えるものの中に神を見よ。耳に聞くものの中に神を聞け。

(†心のデボーション01906)

† 心のデボーション 01907

「即ちその跌倒る時には一箇の人その伴侶を扶けおこすべし 然ど孤身にして跌倒る者は憐なるかな之を扶けおこす者なきなり」 伝道4:10 明治元訳聖書

「倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。」 新共同訳聖書

 「助け」

ラテン語格言に「助けることのできる全ての人々を助ける者は幸運である」とある。

自分は全ての人を助けることができると考えてはならない。人が助けることができるのは、「助けを受けいれる人」に限られる。自分は誰を助けることができるのかと悩む必要はない。あなたの助けを受け入れることのできる人がその人である。「倒れても起こしてくれる友のない人」は不幸な人である。

(†心のデボーション01907)

† 心のデボーション 01908

「ザアカイ立ちて主に言ふ『主、視よ、わが所有の半を貧しき者に施さん、若しわれ誣ひ訴へて人より取りたる所あらば、四倍にして償はん』」 ルカ19:8 大正文語訳聖書

「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します」 新共同訳聖書

 「施し」

ザァカイはなぜ財産の半分をも貧しい人々に施したのだろうか。これまでのつぐないの意味もあったが、それ以上に、イエスとの出会いを繰り返し経験したかったからではないだろうか。

ザァカイは施しによって人間性の嫌な面も見ることになったと思う。親切を受ける人が必ずしも心清らかとは限らないからである。それでもザァカイは施しを止めようとはしなかった。人の心の深淵を見るたびに、そこに自分とイエスとの出会いを見出したのである。

(†心のデボーション01908)

† 心のデボーション 01909

「我すべての事に於て例を示せり、即ち汝らも斯く働きて、弱き者を助け、また主イエスの自ら言ひ給ひし『與ふるは受くるよりも幸福なり』との御言を記憶すべきなり」 使徒20:35 明治元訳聖書

「あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました」 新共同訳聖書

  「与えよ」

「Give, and you may keep your friend if you lose your money; lend, and the chances are that you lose yourfriend if ever you get back your money. 与えよ。そうすれば金を失っても友情だけは残る。貸して、その金を取り戻すとたんに、あなたは友を失うだろう」(-Sir Edward Bulwar-Lytton  エドワード・バルワー=リトン卿の言葉)

貸すなら与えるつもりで貸すがよい。返済されたら、あなたは貸した金と友の両方を得る。

(†心のデボーション01909)

† 心のデボーション 01910

「我等もし其の見ぬところを望まば、忍耐をもて之を待たん」 ロマ8:25 大正文語訳聖書

「私たちは目に見えないものを望んでいるので辛抱強く待っているのです」 フランシスコ会訳聖書

 「希望」

パウロは「目に見えないもの」を望む。「望む ἐλπίζω  エるピゾー」は「待ち望む、希望する、考える、予想する」の意味である。

「目に見えないもの」とは「まだ見ていないもの」である。パウロは「この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないこと」を「待ち望み、希望し、考え、予想した」のである。

「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです」 ヘブル11:2(新改訳聖書)

(†心のデボーション01910)

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