† 心のデボーション 01861
「この故に、彼らを懼るな。蔽はれたるものに露れぬはなく、隱れたるものに知られぬは無ければなり」 マタイ10:26 大正文語訳聖書
「おおわれているもので、現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません」 新改訳聖書
「あきらめ」
「あきらめ」とは「明らかに極めること」だという。生死を明らかにすることができれば、つまらないことに執着することから解放され、あきらめの構えができるに違いない。あきらめきれないのは、明らかにしてしまうことへのためらいかもしれない。
とはいえ、何でも明らかにすればいいものでもない。「あきらめが肝心」とは、あきらめを肝臓や腎臓のように大切にすることである。 隠されているものを現わされるのが神の業である。
(†心のデボーション01861)
† 心のデボーション 01862
「『キリスト・イエス罪人を救はん爲に世に來り給へり』とは、信ずべく正しく受くべき言なり、其の罪人の中にて我は首なり。」 Ⅰテモテ1:15 大正文語訳聖書
「『キリスト・イエスは、罪人を救うために、この世に来られた』。この言葉は真実であり、また全面的に受け入れるに足りるものです。わたしは罪人の中の罪人です。」 フランシスコ会訳聖書
「罪人のかしら」
「我は罪なしと云ふ者は未だ神を知りし者にあらず、我に罪のほか何物もなきを覚て我は始めて基督の僕たるを得るなり」(「内村鑑三随筆集」より)
パウロは「罪人の中にて我は首なり」という。「頭」と訳されたギリシャ語「πρῶτος プロートス 」は「最初の、真先の、主要な」の意味。永井直治訳聖書は「彼らのうちにて我は第一なり」と訳す。
この告白においてパウロは「基督の僕の第一の者」である。
(†心のデボーション01862)
† 心のデボーション 01863
「われ床にありて汝をおもひいで夜の更るままになんぢを深くおもはん時 わがたましひは髓と脂とにて饗さるるごとく飽ことをえ わが口はよろこびの口唇をもてなんぢを讃たたへん」 詩篇63:6 明治元訳聖書
「わたしの魂は満ち足りました/乳と髄のもてなしを受けたように。わたしの唇は喜びの歌をうたい/わたしの口は賛美の声をあげます」 新共同訳聖書
「もてなし」
アラブ人は客を迎えたら、どんなに忙しくても、たとえ、最後の駱駝であっても、それを殺して客を接待するという。だから、自分が客になるときは最大級のもてなしを当然のように期待する。
神の「もてなし」に私の魂は「満ち足りる」。神が私の「客」として訪れたときには、どのように「もてなし」をしたらよいのだろうか?
(†心のデボーション01863)
† 心のデボーション 01864
「そはかぞへがたき禍害われをかこみ わが不義われに追及てあふぎみること能はぬまでになりぬ その多きことわが首の髮にもまさり わが心きえうするばかりなればなり」 詩篇40:12 明治元訳聖書
「数えきれないほどのわざわいが私を取り囲み、私の咎が私に追いついたので、私は見ることさえできません。それは私の髪の毛よりも多く、私の心も私を見捨てました」 新改訳聖書
「私を助け出してください」
英語で beset に「困難につきまとわれる」の意味に使われる。原意は「包囲する、取り囲まれる、ふさがれる」である。「be あらゆる + set 置く」から、あらゆる方向に困難なことが置かれることだそうである。
詩篇の作者は「数えきれないほどのわざわいが私を取り囲み、私の咎が私に追いついたので、私は見ることさえできません。それは私の髪の毛よりも多く、私の心も私を見捨てました」という状況の中で、神に「主よ。どうかみこころによって、私を救い出してください」と祈る。(詩篇40:13)
(†心のデボーション01864)
† 心のデボーション 01865
「天の神ヱホバ我を導きて吾父の家とわが親族の地を離れしめ我に語り我に誓ひて汝の子孫に此地を與へんと言たまひし者其使を遣して汝に先たしめたまはん汝彼處より我子に妻を娶るべし」 創世24:7 明治元訳聖書
「私を、私の父の家、私の生まれ故郷から連れ出し、私に誓って、『あなたの子孫にこの地を与える』と約束して仰せられた天の神、主は、御使いをあなたの前に遣わされる。あなたは、あそこで私の息子のために妻を迎えなさい」 新改訳聖書
「赤い糸」
中国の「続幽怪録」に、韋固(いこ)という若者が、月の夜に大きな袋にもたれて本を読んでいる老人に出会う。大きな袋には「赤い縄」が入っていて、それで男と女の足を結ばれると、どんな理由があっても二人は夫婦になるという。韋固(いこ)は老人からやがて妻になる女性を教えてもらい、その通りに夫婦になった。「赤い糸」の語源はこのお話ではないかという。
だが、「赤い糸」は透明の糸でよられいて、人には「見えない赤」のようだ。
神は、イサクの妻を探しに遣わされたアブラハムの僕の行く先に御使いを遣わされた。
(†心のデボーション01865)
† 心のデボーション 01866
「汝等みづから心せよ、又すべての群に心せよ、聖靈は汝等を群のなかに立てて監督となし、神の己の血をもて買ひ給ひし教會を牧せしめ給ふ。」 使徒20:28 大正文語訳聖書
「神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです」 新改訳聖書
「つ離れ」
芸人の修行時代は、舞台に立ってもお客がいない。「一つ、二つ」と客席を数えて、十になるとやっと「つ」が離れる。それで、十人以上のお客が入るのを「つ離れ」といってよろこぶそうである。
神学校を卒業したばかりの頃は、早く「つ離れ牧師」になりたいと思った。しかし、牧師として大切な経験は「つ離れ以前」にある。自分自身の「つ離れ」ともなるとと、これはもう常に「つ離れ未満」である。
(†心のデボーション01866)
† 心のデボーション 01867
「ただ己らの宗教、またはイエスと云ふ者の死にたるを活きたりと、パウロが主張するなどに關する問題のみなれば」 使徒25:19 大正文語訳聖書
「ただ、彼と言い争っている点は、彼ら自身の宗教に関することであり、また、死んでしまったイエスという者のことで、そのイエスが生きているとパウロは主張しているのでした」 新改訳聖書
「宗教」
「宗教 religion」はラテン語「religō しっかり結ぶ」から来ており、「re 再び + religō 結ぶ」で、もともと神と結び合わせられている人が、再び結び合わせられる意味である。
真の信仰は神と人を結ぶのが真の信仰である。それ以外のものと結ぶ宗教は信じるに足りない。
(†心のデボーション01867)
† 心のデボーション 01868
「汝等、我等の父にアブラハムありと心の中に云はんとすること勿れ」 マタイ3:9 大正文語訳聖書
「『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」 新共同訳聖書
「われにアブラハムあり」
「われにアブラハムあり」はユダヤ人の精神の深くに刻まれた確信と誇りである。ヨハネはそれを砕く。「われにアブラハムあり」との信仰はむなしい。信仰は「私」にはじまり、「私」に至るものである。そのようにして「私」を生きる者の譜系が「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という「祝福の連鎖」である。
「われにアブラハムあり」は、形をかえて何度でも人間の心によみがえってくる。砕くべきは「アブラハム」ではなく、「われにアブラハムあり」という我らの強い思いである。あらゆる背景を消して一人神の前に立つ。それが「アブラハム」である。
(†心のデボーション01868)
† 心のデボーション 01869
「汝らの中たれか櫓を築かんと思はば、先づ坐して其の費をかぞへ、己が所有、竣工までに足るか否かを計らざらんや」 ルカ14:28 大正文語訳聖書
「塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか」 新改訳聖書
「計算」
「計算する」のギリシャ語「ψηφίζω」は「小石を使って勘定する」の意味である。英語の「計算する calcurate」の語源も「calc 石 + ate する」で、ギリシャ語から来ている。昔はものを数えるのに石をつかったことからきている。
「搭を築こう」とする人々は、まず、座って、沢山の小石を使って、その費用を計算したのだろう。
ことを起こすには、目に見える形で、その費用の大きさを理解する必要がある。現代の「calcurator 計算器」は石を使わないので、その辺が分かりにくい。
(†心のデボーション01869)
† 心のデボーション 01870
「すべての勤勞には利益あり されど口唇のことばは貧乏をきたらするのみなり」 箴言14:23 明治元訳聖書
「どのような苦労にも利益がある。口先だけの言葉は欠乏をもたらす」 新共同訳聖書
「利益を計る」
上智大学商学部の杉本徹雄研究室で、定価100万円の車を「3割引き」「30%引き」「30万円引き」と表示した場合、どの表示が一番安い気がするかを調査したところ「30万円引き」が75%「30%引き」が19%「3割引き」が6%だったという。ところが定価1000円のシャツの「3割引き」「30%引き」「300円引き」では「300円引き」7%「30%引き」52%「3割引き」41%だったという。高額商品と低額商品では逆になる。(近藤勝重 「つかみの大研究」より)人は使い慣れた金額の範囲内で損か得かを判断する。
あまりに大きな神の恵みは、正確に測れていないかもしれない。
(†心のデボーション01870)
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