心のデボーション186

デボーション1
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† 心のデボーション 01851

「主の僕は爭ふべからず、凡ての人に優しく能く教へ忍ぶことをなし」 Ⅱテモテ2:24 大正文語訳聖書

「すべての人に優しく」 新改訳聖書

 「やさしさ」

スズメのエサ場にハトが来て困る。そこでハトを追い払うとスズメも逃げる。エサ場にハトよけの仕掛けを作ると、スズメはこわがって近づかない。スズメの為にハトからエサ場を守ってやろうという「やさしさ」がスズメを怯えさせる。

夫が問題を論理的に説明するのを、妻は冷たいと受け取り、さらにこじれていくのとどこか似ている。やさしさは、伝えるのも受け取るのも、以外と難しい。

(†心のデボーション01851)

† 心のデボーション 01852

「なんぢ瘖者のため又すべての孤者の訟のために口をひらけ」 箴言31:8 明治元訳聖書

「あなたは口のきけない者のために、また、すべての不幸な人の訴えのために、口を開け」 新改訳聖書

 「不幸感」

不幸な話は聞きたくないと耳を閉ざす人がいる。人の不幸に触れると、自分が不安定になるのが恐いのだ。そうなると、人の不幸に心を合わすことができなくなる。人と共に生きるには、不幸とも向き合うことができる必要がある。それには、まず、自分の不幸に目を背けないことだ。しっか見さえすれば、不幸と思えることにも意味がある。

(†心のデボーション01852)

† 心のデボーション 01853

「人はみな虚偽をもてその隣とあひかたり滑なるくちびると貳心とをもてものいふ」 詩篇12:2 明治元訳聖書

「人は友に向かって偽りを言い/滑らかな唇、二心をもって話します」 詩篇12:3 新共同訳聖書

 「アラブ式友人」

マーガレット・K・ナイデルの「アラブ人の不思議な習慣」によれば、アラブ人にとっての「友人」とは「何かを頼んだら引き受けてくれる人のこと」であるが、「その頼みごとを本当に叶えてやれるかどうかは、別の問題なのだ」という。だから、友達の頼み事は断らないが、できなければ謝ればいい。頼んだ側も、「相手が約束を守れなかったこと責めたりもしない」そうである。

「滑らかな唇、二心をもって、偽りを言わない」は、「アラブ式友人」とは違って、「出来ない頼み事」は断る友人関係であろう。

(†心のデボーション01853)

† 心のデボーション 01854

「わが愛する者よ ああなんぢは美はしくまた樂しきかな われらの牀は靑緑なり」 雅歌1:16 明治元訳聖書

「私の愛する方。あなたはなんと美しく、慕わしい方でしょう。私たちの長いいすは青々としています」 新改訳聖書

 「美しい人」

「美しい」の英語 beautiful の原意は「よさで満ちている」である。恋人が、「あなたはなんと美しく、慕わしい方でしょう」と囁くとき、彼は「美人」というよりも、「よきもので満ちた人よ」と言っているのである。

(†心のデボーション01854)

† 心のデボーション 01855

「なんぢの頬は面帕の後にありて石榴の半片に似たり」 雅歌6:7 明治元訳聖書

「あなたのほおは顔おおいのうしろにあって、ざくろの片われのようだ」 口語訳聖書

 「女性の笑顔」

心理学者の内藤誼人さんは「女性というのは、異性としての関心を持っていない相手にでも、先天的によく笑う生き物なんです」と言っている。それは「米カリフォルニア大学の心理学者マリネラ・ファリス氏が生後2カ月の男女を複数集め、母親が話しかけた時と、まったく知らない人物が話しかけた時の反応を観察して、比較しました結果、男の子よりも女の子の赤ちゃんの方が、相手を問わずよく笑う傾向が顕著に認められた」ことからもわかるという。(2013年8月8日配信)

女性の笑顔は美しい。だが、女性の笑顔がすべて自分に向けられていると思うのは勘違いである。

雅歌は恋人の美しさを「ざくろの片われのようだ」という。少女の頬が「ざくろ」のように赤みを帯びて美しいといっているのである。少女は笑顔を向けていたのだろう。

(†心のデボーション01855)

† 心のデボーション 01856

「汝らは明かに我らの職によりて書かれたるキリストの書なり。而も墨にあらで活ける神の御靈にて録され、石碑にあらで心の肉碑に録されたるなり」 Ⅱコリント3:3 大正文語訳聖書

「あなたがたが私たちの奉仕によるキリストの手紙であり」 新改訳聖書           

 「文殻」

読み終わって不用になった手紙を「文殻(ふみがら)」という。もみ殻のように焼いてしまうのは忍びない。

パウロはコリントの人々を「キリストの手紙」と呼ぶ。

「私」という存在が人々に宛てられたキリストの手紙だとすれば、受取人が何を読み取るか心配にもなる。それはさておき、「人」は私への「キリストの手紙」である。

読み終わっても「不用」にするわけにはいかない。

(†心のデボーション01856)

† 心のデボーション 01857

「兩ながら收穫まで育つに任せよ。收穫のとき我かる者に『まづ毒麥を拔きあつめて、焚くために之を束ね、麥はあつめて我が倉に納れよ』と言はん」 マタイ13:3 大正文語訳聖書

「収穫の時期になったら、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい」 新改訳聖書

 「二つの考え」

麦畑に毒麦が現われた。毒麦は良い麦と似ていて区別が難しく、毒麦を抜こうとすれば、良い麦も一緒に抜いてしまうことになりかねない。その時は、収穫まで両方とも育つままにしておく。

その実によって区別がついたら毒麦だけを抜く。

対立した二つの考えがあって、どちらが正しいかわからない時には対立そのものを大切にし、その実が出てきたら判断する。「実」を見るまではわからないことも多い。

しかし、この方法を選ぶときには、「毒麦」の存在を片時も忘れてはいけない。畑は極めて危険な状態にある。介入のタイミングを誤ると手遅れになる。

(†心のデボーション01857)

† 心のデボーション 01858

「然(され)ば悔改(くいあらため)に符(かな)ふ果(み)を結(むす)べよ」 マタイ3:8 明治元訳聖書

「然れば改心の相當なる果を結べよ」 ラゲ訳聖書

 「悔い改めの場所」

英語で「悔い改め」はrepentance(King James Version)である。repentance はラテン語 paenitere 「後悔する」に re 「再び」がついたもの。「再び、後悔する」の意味。

カトリックでは「告解室」を「penitentiary」と呼ぶが、米国では「刑務所」をさす。刑に服するというよりも、「repent 悔い改める場所」である。
(†心のデボーション01858)

† 心のデボーション 01859

「うれひ人の心にあれば之を屈ます されど善言はこれを樂します」 箴言12:25 明治元訳聖書

「心に不安のある人は沈み、親切なことばは人を喜ばす」 新改訳聖書

 「心に不安のある人」

親切なことばは、不安を感じている人を慰める。しかし、彼から不安を取り去ることはできない。不安はくすぶり続ける熾火のようなもので、人にできるのは、熾火が炎上しないようにするのがよい。自分の内にある不安と適切な距離をとることを覚えれば、不安は軽くなる。

(†心のデボーション01859)

† 心のデボーション 01860

「かくて群衆に命じて草の上に坐せしめ、五つのパンと二つの魚とを取り、天を仰ぎて祝し、パンを裂きて、弟子たちに與へ給へば、弟子たち之を群衆に與ふ」 マタイ14:19 大正文語訳聖書

「そしてイエスは、群衆に命じて草の上にすわらせ、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った」 新改訳聖書

 「祝禱」

牧師は礼拝の終わりに「祝祷」をささげる。

「祝祷 benediction 」は「bene よい + dict 話す」で、神がしてくださるよきことについて感謝をささげる祈りである。

(†心のデボーション01860)

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