† 心のデボーション 01821
「夫のライシの國を窺ひに往たりし五人の者その兄弟等に告て言けるは是等の家にはエポデ、テラピムおよび雕める像と鑄たる像あるを汝等知や然ば汝ら今その爲べきことを考へよと」 士師記18:14 明治元訳聖書
「今あなたがたは何をなすべきかを知りなさい」 新改訳聖書
「シシフォス」
ギリシャ神話に出てくるコリントの王シシフォスは犯した罪に対して、大きな岩を山に押し上げる罰が与えられる。苦労して山頂まで岩を運ぶと、岩は山を転げ落ち、シシフォスは再び岩をかつがなければならなかった。
現代の若者はシシフォスに嫉妬するかもしれない。シシフォスには、とりあえず、明日なすべきことが約束されているからである。一つのことを繰り返す苦痛より、することのない苦悩のほうがはるかに深いと。
(†心のデボーション01821)
† 心のデボーション 01822
「婦女のいと美はしきものよ 汝の愛する者は何處へゆきしや なんぢの愛する者はいづこへおもむきしや われら汝とともにたづねん」 雅歌6:1 明治元訳聖書
「あなたの恋人はどこに行ってしまったの。だれにもまして美しいおとめよ/あなたの恋人はどこに行ってしまったの。一緒に探してあげましょう」 新共同訳聖書
「魅力ある人」
人の魅力は外見だけではない。若いときは「美貌」が頼りになることもあるが、いつまでも「美貌」に頼れるものではない。外観に自信のある人は、自分の魅力の源泉を見誤る。
自分の魅力は自分という存在にあり、その現れとしての「外観」が「美しい」のである。
(†心のデボーション01822)
† 心のデボーション 01823
「時に一人の少者こたへていひけるは我ベテレヘム人ヱサイの子を見しが琴に巧にしてまた豪氣して善くたたかふ辯舌さはやかなる美しき人なりかつヱホバこれとともにいます」 Ⅰサムエル16:18 明治元訳聖書
「従者の一人が答えた。「わたしが会ったベツレヘムの人エッサイの息子は竪琴を巧みに奏でるうえに、勇敢な戦士で、戦術の心得もあり、しかも、言葉に分別があって外見も良く、まさに主が共におられる人です。」 新共同訳聖書
「ダビデの竪琴」
ダビデは若くして竪琴を巧みに奏でる人であった。ダビデの竪琴は kinnor と呼ばれる十弦のハープであったとされる。風が木の枝を吹き抜ける時に出す音をエオルス音というが、昔の人は竪琴を木に吊るして風が奏でる音を楽しんだという。ダビデもそのようにして楽しんだだろうか? 「エオルス音」はギリシャ神話の風神アイオロス Aiolos に由来する。
(†心のデボーション01823)
† 心のデボーション 01824
「祝して之を擘き、而して言ひ給ふ『これは汝等のための我が體なり。我が記念として之を行へ』」 Ⅰコリント11:24 大正文語訳聖書
「感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。『これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい』」 新改訳聖書
「パン」
「パン」は英語では「bread」なのに、日本では「パン」というのは、日本に「パン」を伝えたのが、16世紀のポルトガルの宣教師であったことから、ポルトガル語の「pão (パウン)」から「パン」と呼ばれるようになった。ポルトガル語の「pão (パウン)」の語源はラテン語「panis(パーニス)」である。
ポルトガルの宣教師は日本に「パン」の焼き方を教えるというよりも、「いのちの糧」なるイエス・キリストを伝えたかったに違いない。
(†心のデボーション01824)
† 心のデボーション 01825
「義者のくちびるは喜ばるべきことをわきまへ 惡者の口はいつはりを語る」 箴言10:32 明治元訳聖書
「神に従う人の唇は好意に親しみ/神に逆らう者の口は暴言に親しむ」 新共同訳聖書
「江戸しぐさ」
昔、江戸には「人が人通りの多い道ですれちがうとき、互いに内側の肩をすこし後ろへ引く」のが通常で、「そうすると体が触れ合わなくてすむ」、これを「江戸しぐさ」というと外山滋比古さんが書いている。(外山滋比古『頭の旅』)
できるだけ、衝突しないように生きたいものである。対立から逃げるというよりも、不必要ないざこざに巻き込まれないためである。
(†心のデボーション01825)
† 心のデボーション 01826
「彼男子を生みければモーセその名をゲルシヨム(客)と名けて言ふ我異邦に客となりをればなりと」 出エジプト2:22 明治元訳聖書
「モーセは彼をゲルショムと名付けた。彼が「わたしは異国にいる寄留者だ」と言ったからである」 新改訳聖書
「寄留者」
モーセはミディアンで生まれた男の子に、ゲルショム「外国にいる寄留者」という名前をつける。それは、この時のモーセの心情をよく表わしている。モーセはこの四十年間を寄留者として荒野で羊を飼う以外に何もしていないからである。
自分が行動を起こすことを止められている時は、何もしないのが良い。やがて、約束の地に向かって歩きはじめる時が来る。それまで、人はミディアンの荒野で祈りの時を過ごすのである。
(†心のデボーション01826)
† 心のデボーション 01827
「神光を晝と名け暗を夜と名けたまへり夕あり朝ありき是首の日なり」 創世1:5 明治元訳聖書
「光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である」 新共同訳聖書
「24時間時計」
午前と午後を表す「am」は、ラテン語「ante meridiem (正午の前)」の略で、「pm」は「post meridiem(正午の後」の略である。「meridiem 」は「medius 中央 +dies 日」で一日の真ん中を意味する。
古代ユダヤでは一日は夕方にはじまるので、一日の真ん中は朝の6時ということになる。一日を12時時間時計ではなく24時間時計でみると別の一日が見えてくる。
(†心のデボーション01827)
† 心のデボーション 01828
「ヨハネ、パリサイ人およびサドカイ人のバプテスマを受けんとて、多く來るを見て、彼らに言ふ『蝮の裔よ、誰が汝らに、來らんとする御怒を避くべき事を示したるぞ」 マタイ3:7 大正文語訳聖書
「ヨハネは、ファリサイ派とサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、彼らに言った。「まむしの子孫、来るべき神の怒りから逃れるようにと、誰が教えたのか」 フランシスコ会訳聖書
「災い汝に至らず」
人は「災い汝に至らず」と告げる声を聞きたがる。それを告げる偽りの預言者のところには、今も多くの信徒が集まってくる。それが最悪の災いであることに気づかない。
(†心のデボーション01828)
† 心のデボーション 01829
「聖書はみな神の感動によるものにして、教誨と譴責と矯正と義を薫陶するとに益あり」 Ⅱテモテ3:16 大正文語訳聖書
「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である」 口語訳聖書
「優秀なシェルパ」
国際的な首脳会談などでは「シェルパ」と呼ばれる人々が活躍するという。「シェルパ Sherpa」はチベット語で「東の人」の意味。エベレスト南麓の高地にすむ「シェルパ族」の人々で、登山の優れた案内人であり、キャンプ設営から荷物運びまで、彼らがいなければヒマラヤ登山は成り立たない。
サミットでは「シェルパ」と呼ばれる高級官僚たちが、事前の調整など十分な根回しなど、縁の下の力持ちとなって働く。
神は優れたシェルパを雇われて私の人生を支援してくださっている。
(†心のデボーション01829)
† 心のデボーション 01830
「こは人に智慧と訓誨とをしらしめ哲言を暁らせ」 箴言1:2 明治元訳聖書
「これは知恵を知り、教育を与え、悟りの言葉を深く知るためのものであり」 フランシスコ会訳聖書
「死を愛する者」
「わたしを失う者は自分の命をそこなう、すべてわたしを憎む者は死を愛する者である」 箴言8:36 口語訳聖書
箴言8:36の「わたし」は「知恵」の擬人化である。
「知恵」は与えられた後に見失ってしまうことがある。そのようにして、「知恵」を見失う者は「魂(すなわち自己)」を損なうのである。「知恵を見失う者」は「知恵を憎む者」であり、彼は「死を愛する者」である。死もまた彼を愛する。
(†心のデボーション01830)
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