心のデボーション181

デボーション1
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† 心のデボーション 01801 

「そは汝くるしめる民をすくひたまへど高ぶる目をひくくしたまふ可ればなり」 詩篇18:27 明治元訳聖書

「あなたは、悩む民をこそ救われますが、高ぶる目は低くされます」 新改訳聖書

 「悩む民」

神は「悩む民」をこそ救われる。

「悩む」は「低い、謙遜」とも訳せる。しかし、悩みは必ずしも、人を低くしない。

悩んでいるのはたしかだが、決して謙虚ではない。追い詰められてはいても、「高ぶる目」でものを見るのをやめない。それが悩みを生み出す原因かもしれない。

高ぶる目は低くされ、救いは身を低くする人にくる。

(†心のデボーション01801)

† 心のデボーション 01802 

「朋友はいづれの時にも愛す 兄弟は危難の時のために生る」 箴言17:17 明治元訳聖書

「友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる」 新改訳聖書

 「擦り切れた着物」

岸田國士『懐疑的宣言』に、ジユウル・ルナアルの日記からの一文に「一八八八年十一月十五日 友達といふものは着物のやうなものだ。摺り切れる前に脱いだ方がいゝ。さもないと、向ふから離れて行く。」というのがある。

擦り切れるまでの「友人」なら脱ぎ捨てるまでもない。

擦り切れるまでの「友人」なら、こちらが脱ぎ捨てられるまでは着ていたい。なじんだ着物は擦り切れるほどに味わいもでて手放せない。

(†心のデボーション01802)

† 心のデボーション 01803 

「目に觀る事物は心のさまよひ歩くに愈るなり 是また空にして風を捕ふるがごとし」 伝道6:9 明治元訳聖書

「軽々しく心をいらだててはならない。いら立ちは愚かな者の胸にとどまるから」 新改訳聖書

 「愛の錯覚」

自分がある人を深く愛すると、相手も自分を愛していると感じるようになる。また、自分がある人を嫌うと、相手も自分を嫌っていると考えたくなる。愛であれ、嫌悪であれ、自分の思いと同じものを相手に信じてしまう。本当のことを確認するのは少し怖い。しかし、少しの勇気を出して事実を確認したい。

事実を育てる方が、錯覚の愛や誤解の嫌悪に振りまわされるよりも、ずっと良い。

(†心のデボーション01803)

† 心のデボーション 01804 

「なんぢは鍳たまへりその殘害と怨恨とを見てこれに手をくだしたまへり 倚仗なきものは身をなんぢに委ぬなんぢは昔しより孤子をたすけたまふ者なり」 詩篇10:14 明治元訳聖書

「あなたは必ず御覧になって/御手に労苦と悩みをゆだねる人を/顧みてくださいます。不運な人はあなたにすべてをおまかせします。あなたはみなしごをお助けになります」 新共同訳聖書

 「痛みなくして得るものなし」

「痛みなくして得るものなし No pain, no gain」という。

同じ流れに、「Ninety percent of inspiration is perspiration. 霊感の九割が発汗である」という言葉もあるそうである。(「英語ことわざ教訓事典」 安藤邦男著より)

大半が発汗だとしても、一割の霊感をうながすような汗のかき方をしたいのである。

(†心のデボーション01804)

† 心のデボーション 01805 

「然らば如何にすべきか、我は靈をもて祈り、また心をもて祈らん。我は靈をもて謳ひ、また心をもて謳はん」 Ⅰコリント14:15 大正文語訳聖書

「ではどうすればよいのでしょう。私は霊において祈り、また知性においても祈りましょう。霊において賛美し、また知性においても賛美しましょう」 新改訳聖書

 「霊性と知性」

健全な霊性は健全な知性に宿る。健全な知性には健全な霊性が宿る。霊において賛美する人は知性において賛美する。霊性に欠ける知性は不十分である。知性に欠ける霊性を信じてはならない。

(†心のデボーション01805)

† 心のデボーション 01806 

「主人いふ「宜いかな、善かつ忠なる僕、なんぢは僅なる物に忠なりき。我なんぢに多くの物を掌どらせん、汝の主人の勸喜に入れ」 マタイ25:21 大正文語訳聖書

「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかなものに忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう」 新改訳聖書

 「小さな約束」

自分で決めたことを守れる人は尊敬に値する。自分との約束をどのように果たしているかで、その人が信用できるかどうかがわかる。ただし矛盾するようだが、約束で自分をしばらないことだ。果たせないようなことを決めて、それで自分を不自由にしては意味がない。

小さい約束は「つまらないこと」ではない。「わずかなものに忠実」な人に、神は「たくさんのものを任せよう」といわれる。

(†心のデボーション01806)

† 心のデボーション 01807 

「アブラムよ懼(おそ)るるなかれ我は汝の干櫓(たて)なり汝の賚(たまもの)は甚(はなは)だ大(おおい)なるべし」 創世15:1 明治元訳聖書

「これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」

 「マゲンダビド」

イスラエルの国旗は白抜きの背景に、ダビデの星と呼ばれる紺青色の六芒星、上下の辺に同じく紺青色の帯、の図柄からできている。ユダヤ人は「ダビデの星」をヘブライ語で、「マゲンダビド מַגֵּן דָּוִד」と呼ぶ。「ダビデの盾」の意味である。「マゲン」は神がアブラハムに「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾(マゲン)である」からきている、

ユダヤ人は「マゲンダビド」を身につけて歩むことを「国旗」に描いたのである。

(†心のデボーション01807)

† 心のデボーション 01808 

「罪を言ひ表し、ヨルダン川にてバプテスマを受けたり」 マタイ3:6 大正文語訳聖書

「自分の罪を告白し、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けた」 フランシスコ会訳聖書

 「罪の告白」

相手を傷つけた「罪」を悔い改めた後、その相手にもその「罪」を告白すべきだろうか? 相手がそれを知らないときに、それを「言いあらわす」なら、相手を二重に傷つけることもある。

神に言いあらわした後に、人にも同じように告白するべきかは、神と相談すべきである。

「罪の告白」がよき実を結ぶなら、その傷は癒される。よき実を結ばぬ告白は「真実の告白」ではない。

人に告白することも、告白を隠すことも、神の栄光のあらわれを願う、さらなる祈りである。

(†心のデボーション01808)

† 心のデボーション 01809 

「元始に神天地を創造たまへり」 創世記1:1 明治元訳聖書

「初めに、神は天地を創造された」 新共同訳聖書

 「紀元前4004年10月23日午前9時」

1654年に、英国国教会のアイルランド大主教ジェームズ・アッシャーとケンブリッジ大学副総長ジョン・ライトフット(英語版)が聖書の記述から逆算し、天地創造は西暦の紀元前4004年10月18日~24日にかけて起こり、アダム創造は紀元前4004年10月23日午前9時と算出し、長らくキリスト教圏ではこの年代が信じられてきたこれは旧約聖書のモーセ五書に登場する族長全員の寿命を加算して算出したものである。

創造の日は確かに存在したが、その日を特定することは現代にいたるもできていない。

(†心のデボーション01809)

† 心のデボーション 01810 

「こは人に智慧と訓誨とをしらしめ哲言を暁らせ」 箴言1:2 明治元訳聖書

「これは知恵を知り、教育を与え、悟りの言葉を深く知るためのものであり」 フランシスコ会訳聖書

 「知恵を売る」

「真理を買え、これを売ってはならない」 箴言23:23 口語訳聖書

「知恵」は持てるもののすべてをもっても買え。しかし、そのようにして得た「知恵」を「売ってはならない」。

「知恵」を得る者は、それを失わないようにすべきである。与えられた知恵を保持することはそれを得ることよりも難しい。なぜなら、「知恵」は絶えず新しく生まれ変わるからである。

イエス・キリストの福音もまたしかり。

(†心のデボーション01810)

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