心のデボーション179

デボーション1
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† 心のデボーション 01781

「よろこびの音をしる民はさいはひなり ヱホバよかれらはみかほの光のなかをあゆめり」 詩篇89:15 明治元訳聖書

「幸いなことよ、喜びの叫びを知る民は。主よ。彼らは、あなたの御顔の光の中を歩みます」 新改訳聖書

 「正直な人」

怒りや不満がそのまま顔に出てしまうのは、正直な人だ。しかし、そのため周りの雰囲気をこわしてしまうことも少なくない。だからといって、顔に感情を表わさない努力をする必要などない。むしろ、次はカラッとした楽しさを顔に出せばよい。

気持ちを素早く切り替えるというのは、一つの魅力である。民に「喜びの叫びを知らせる」ことが出来るのはそういう人々かもしれない。

(†心のデボーション01781)

† 心のデボーション 01782

「おのれの目に自らを潔者となして尚その汚穢を滌はれざる世類あり」 箴言30:12 明治元訳聖書

「世には自分の目にみずからを清い者として、なおその汚れを洗われないものがある」 新改訳聖書

 「一番汚いもの」

曽野綾子さんは「人間、一番汚いものの始末ができるようになると、あとは恐ろしいものがなくなるの」と書いている。(曽野綾子 「自分の顔、相手の顔」より)

しかし、「一番汚いもの」は自分で始末できないようで、申し訳ないが、神様に始末していただくしかないのではないか。こうして私は「一番汚いもの」を始末するとき手が汚れても怖くなくなった。

(†心のデボーション01782)

† 心のデボーション 01783

「ダビデの子イスラエルの王ソロモンの箴言」 箴言1:1 明治元訳聖書

「ダビデの子イスラエルの王ソロモンの箴言」 新共同訳聖書

 「類似によって」

「箴言 מִ֭שְׁלֵי マーシャール」は「類似によって説明する」の意味からきており、「真理を人生の実際的な事柄を通して知恵として表現する」の意味である。

創られた世界は創造者について類似した内容をもつ。真実は常に現実の中にあると箴言は教えてくれる。

(†心のデボーション01783)

† 心のデボーション 01784

「(京まうでの歌) ヱホバよねがはくはダビデの爲にそのもろもろの憂をこころに記たまへ」 詩篇131:1 明治元訳聖書

「及びもつかない大きいことや、危しいことに、私は深入りしません」 新改訳聖書

 「小さいこと」

不可能と思えることでも神には可能と信じるのが信仰だが、「及びもつかない大きなことに深入りしない」のも信仰である。この二つはどう調和するのだろうか。

イエスは「小さいことに忠実な人は、大きいことにも忠実であり、小さいことに不忠実な人は大きいことにも不忠実です」と答える。自我肥大にも卑下にも陥らず、目の前にあるものを神から受けとるのが信仰である。事の大きい、小さいことなど、どうでもよい。

(†心のデボーション01784)

† 心のデボーション 01785

「王すなはち方伯レホム書記官シムシヤイこの餘サマリアおよび河外ふのほかの處に住る同僚に答書をおくりて云く平安あれ云々」 エズラ4:17 明治元訳聖書

「王は参事官レフム、書記官シムシャイ、およびサマリヤと川向こうのその他の地に住んでいる彼らの同僚に返事を送った。「平安があるように。さて、」 新改訳聖書

 「平安があるように」

「シャローム(שָׁלוֹם šālôm)」は「平和」を意味することばで、ユダヤ人の挨拶につかわれる。

「シャローム(שָׁלוֹם šālôm)」の原意は「完全な状態」で、「欠けたところのない完全な状態」を意味する。「平和」とは、何も欠けたところのない完結した状態のことである。

ユダヤ人は会う人に物質的にも精神的にも「欠けたところがありませんように」と互いに挨拶を交わすのである。

神から人に「欠けたところのない平和」は来る。

(†心のデボーション01785)

† 心のデボーション 01786

「罪を言ひ表し、ヨルダン川にてバプテスマを受けたり」 マタイ3:6 大正文語訳聖書

「自分の罪を告白し、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けた」 フランシスコ会訳聖書

 「告白」

英語で「告白 confession」はラテン語 confiteor からきたもので、con 「十分に、完全に」+ fess 「言う、物語る」こと。「承認する、告白する、言明する」の意味である。

「告白 ἐξομολογέω エクソモろゲオー」は「ἕξ + ὁμο 同じことを + λογέω 言う」で、自己の事実をありのままに言いあらわすことである。神が見たもう私に同意し、言いあらわす。それは密室でなされる神と私の共同作業である。したがって、「告白」がすでに神の業である。この告白によって自己がつくられていく。

(†心のデボーション01786)

† 心のデボーション 01787

「汝の少(わか)き日に汝の造主を記えよ 即ち惡き日の來り年のよりて我は早何も樂むところ無しと言にいたらざる先  また日や光明や月や星の暗くならざる先 雨の後に雲の返らざる中に汝然せよ」 伝道12:1~2 明治元訳聖書

「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」 新改訳聖書

「若き日になんじ何ものをも集めざりき。いかで老いたるときにこれを見だし得んや」 ベン=シラの知恵25:3 日本聖公会訳

 「理想郷」

「Elysium エリュシオン」は、ギリシャ神話の「極楽」で英雄や善人が死後に住むところといわれる。そこから「理想郷・楽土」を意味するようになった。そこでは樹に水晶のコップが下がっており、手に取ると最上の酒が満ち、樹の実をとると自分の好みの食べ物に変わるという。

詩人ウェルギリウス(Vergil)によると、「Elysium」は「Hades」にあり、そこに入るにはまず「Mourning Fields (悲嘆の野)」を抜ける必要があり、その奥の路をゆくと「Elysium」に至るという。

パリの大通り Champs-Elysees シャンゼリゼー は Elysian Fields という意味だそうである。(「Takumi Tsunokake」より)

英雄が行くという「理想郷」も、美食を続ければ、長く留まれるところとは思えない。

(†心のデボーション01787)

† 心のデボーション 01788

「王いふ『善いかな、良き僕、なんぢは小事に忠なりしゆゑ、十の町を司どるべし』」 ルカ19:17 大正文語訳聖書

「あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい」 新改訳聖書

 「一ミナの元手」

ある人が遠い国に行くことになり、十人のしもべに「これで商売をしなさい」と一人一ミナづつを渡した。一ミナは、わずか数千円のお金で、商売の元手としては何とも少なかった。帰国した主人に一人のしもべが、一ミナを元手に十ミナをもうけましたと報告すると、主人は喜び、十の町を支配させた。なんとも大きな報いである。与えられた時や才能という元手が少ないと悲観してはならない。自分への忠実さは「十の町」に匹敵する価値を含む。

(†心のデボーション01788)

† 心のデボーション 01789

「ヱホバいひたまはく往てこの民にかくのごとく告よ なんぢら聞てきけよ然どさとらざるべし 見てみよ然どしらざるべしと」 イザヤ6:9 明治元訳聖書

「すると仰せられた。「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』」 新改訳聖書

 「聞き続けよ。だが悟るな」

「聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな」とは、どのようなメッセージだろうか? イザヤは続いて「この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、自分の心で悟らず、立ち返っていやされることのないように」と神のことばを伝える。

「自分は知った、悟ったと言ってはならない。自分はまだ知っていない、悟っていない」と知ることが「知ること、悟ること」なのだと神は言われるのではないか 」

(†心のデボーション01789)

† 心のデボーション 01790

「傳道者は務めて佳美き言詞を求めたり その書しるしたる者は正直して眞實の言語なり」 伝道12:10 明治元訳聖書

「伝道者は適切なことばを見いだそうとし、真理のことばを正しく書き残した」 新改訳聖書

 「適切なことば」

知らないですむ真実など一つもない。しかし、真実は適切なことばを語る口をもっている。真実が適切なことばを語りだすまで、知ることよりも、「思索と探求」を続けるがよい。

(†心のデボーション01790)

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