心のデボーション177

デボーション1
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† 心のデボーション 01761

「その兄弟を愛する者は、光に居りて顛躓その衷になし」 1ヨハネ2:10 大正文語訳聖書 

「兄弟を愛する者は、光の中にとどまり、つまずくことがありません」 新改訳聖書

 「行き違い」

その人は約束の時間に現われなかった。彼は別の場所で、別の時間に私を待っていたのである。どこかで行き違いが生じたのである。英語で「錯覚 illusion」は、ラテン語の「からかう」という意味のことばからきているのだそうである。

あまり厳密に行き違いの原因を追及しないこと。自分は人生の何かにからかわれたのだと考えれば、腹も立たない。相手の錯覚が自分に都合の良い時、それを告げるべきか少々迷うこともある。

(†心のデボーション01761)

† 心のデボーション 01762

「これ汝をして眞の言の確實なることを暁らしめ 且なんぢを遣しし者に眞の言を持歸らしめん爲なり」 箴言22:21 明治元訳聖書

「これはあなたに真理のことばの確かさを教え、あなたを遣わした者に真理のことばを持ち帰らせるためである」 新改訳聖書

 「持ち帰ることば」

作家を意味する「author」の語源は「auth 増やす」であるという。作家とは「何かを増やす人、何かをつくり出す人」である。

伝道者は「適切なことばを見いだそうとし、真理のことばを正しく書き残した」(伝道12:10 新改訳聖書)。それは、「あなたに真理のことばの確かさを教え、あなたを遣わした者に真理のことばを持ち帰らせるためである」(箴言22:21 新改訳聖書)。

力ある作家の言葉は「持ち帰って、報告できる価値」がある。言葉そのものが行く先々で増幅していく。

(†心のデボーション01762)

† 心のデボーション 01763

「ハンナ心にくるしみヱホバにいのりて甚く哭き」 Ⅰサムエル1:10 明治元訳聖書

「ハンナの心は痛んでいた。彼女は【主】に祈って、激しく泣いた」 新改訳聖書

 「ハンナの祈り」

夫を亡くした人が葬儀も終えて二か月が経過し、静かな生活が始まったとき、突然、激しい悲しみに襲われて、自分をどうすることもできなかったという。人は泣くべきときに泣くことができると、はじめて、生きていけるようだ。一緒に泣くことができる人がそばにいれば、なお良い。

主はハンナの祈りに耳を傾けておられる。

(†心のデボーション01763)

† 心のデボーション 01764

「われすなはちユフラテにゆき帶を我隱せしところより掘取りしにその帶は朽て用ふるにたへず」 エレミヤ13:7 明治元訳聖書

「その帯は腐って、何の役にも立たなくなっていた」 新改訳聖書

 「腐った帯」

エレミヤはユーフラテス川のほとりに行き、岩の割れ目に帯を隠す。多くの日を経て行ってみると、帯は腐って何の役にも立たなくなっていた。「帯」は「結ぶもの」である。神と人をくくりつけ、結び合わせる。パウロは「愛」を「結びの帯」と呼んでいる。

帯が腐るとは、愛がぐずぐずに崩れ、心と心を結ぶ力を失うことを意味する。「帯」は腰につけるもので、それを岩の割れ目に放置するから腐るのであろう。

(†心のデボーション01764)

† 心のデボーション 01765

「言ひたまふ『わが恩惠なんぢに足れり、わが能力は弱きうちに全うせらるればなり』さればキリストの能力の我を庇はんために、寧ろ大に喜びて我が微弱を誇らん。」 Ⅱコリント12:9 大正文語訳聖書

「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました」 新共同訳聖書

 「ゴーシュの導き手」

宮沢賢治のセロ弾きのゴーシュは、音楽会で発表する「第六交響曲」がうまく弾けず、帰宅して一人で練習していると猫やかっこうや狸や野ねずみがやってきて、あれこれ注文する。最初は嫌がって追い出していたが、だんだん彼らの注文に従って弾いていると、セロの腕前が上達し、音楽会では大成功を収める。

「猫やかっこうや狸や野ねずみ」はゴーシュの心にいて欠点をよく知っていて、それを補うための助言をしてくれていたのである。内なる「猫やかっこうや狸や野ねずみ」と上手く付き合うとよい。

(†心のデボーション01765)

† 心のデボーション 01766

「ここにエルサレム及びユダヤ全國、またヨルダンの邊なる全地方の人々、ヨハネの許に出できたり」 マタイ3:5 大正文語訳聖書

「そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て」 新改訳聖書

 「荒野」

現代、人が求めて荒野に行くということがなくなったのは、荒野からヨハネの姿が消えたからだろうか。ヨハネのいない荒野は砂に埋もれた廃墟だ。それとも、人々の集まり住むところが荒野なので、出ていくまでもなくなったためか。はたまた、われらの足が萎え、荒野に赴く力を失くしたためか。

(†心のデボーション01766)

† 心のデボーション 01767

「鞭を控えるものは自分の子を憎む者。子を愛する人は熱心に諭しを与える」 箴言13:24 明治元訳聖書

「むちを加えない者はその子を憎むのである、子を愛する者は、つとめてこれを懲らしめる」 口語訳聖

 「愛は最良の教師」

ラテン語格言に「愛は最良の教師である Amor magister est optimus.」というのがあるという。

その「愛」はその手に「鞭」をもっている。しかし、それは「憎む鞭」ではなく「つとめて懲らしめる鞭」である。彼は子どもの心を正しく導く。

(†心のデボーション01767)

† 心のデボーション 01768

「されど汝らとその櫃との間には量りて凡そ二千キユビト許の隔離あるべし之に近づく勿れなんぢらその行べき途を知んためなり汝らは未だこの途を經しことなかりき ヨシユアまた民に言ふ汝ら身を潔めよヱホバ明日なんぢらの中に妙なる事を行ひたまふべしと」 ヨシュア3:4~5 明治元訳聖書

「そうすれば、あなたがたは行くべき道を知ることができるであろう。あなたがたは前にこの道をとおったことがないからである。しかし、あなたがたと箱との間には、おおよそ二千キュビトの距離をおかなければならない。それに近づいてはならない。ヨシュアはまた民に言った、『あなたがたは身を清めなさい。あす、主があなたがたのうちに不思議を行われるからである』」。 口語訳聖書

 「行くべき道」

ヨシュアはイスラエルの民に「今まで通ったことのない道がある」と告げる。それは「主が、あなたがたのうちで不思議を行われる道」である。(ヨシュア) イスラエルの「行くべき道」であった。

それは荒野に向かう一本の道である。

(†心のデボーション01768)

† 心のデボーション 01769

「愛は隣を害はず、この故に愛は律法の完全なり」 ロマ13:10 大正文語訳聖書

「愛は隣り人に害を加えることはない。だから、愛は律法を完成するものである」 口語訳聖書

 「へんな自分」

自分の中に違和感を覚える自分が存在することは「へん」ではない。自分に「へんなところ」があっても社会に出ていけるなら無理に直そうとしなくてもうよいのではないか? 人はみな、例外なく「へんなところ」をもっているのだから。「へんなところ」を一切認めない社会というのは、清潔であってもどこか怖い。

(†心のデボーション01769)

† 心のデボーション 01770

「アブラハム其處をヱホバエレ(ヱホバ預備たまはん)と名く是に縁て今日もなほ人々山にヱホバ預備たまはんといふ」 創世記22:14 明治元訳聖書

「アブラハムはその場所をヤーウエ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも『主の山に、備えあり(イエラエ)』と言っている。」 新共同訳聖書

 「備え」

アブラハムにイサクを全焼のいけにえとしてささげよと命じられた神は山頂に一頭の雄羊を備えておられた。

神の山には「備え」がある。神はすべてのできごとに先回りして整えておられる。人はそれにむかって歩むのである。

(†心のデボーション01770)

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