心のデボーション175

デボーション1
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† 心のデボーション 01741

「これは執る者には生命の樹なり これ持ものは福なり」 箴言3:18 明治元訳聖書

「知恵は、これを堅く握る者にはいのちの木である。これをつかんでいる者は幸いである」 新改訳聖書

 「繰り返し」

いくら工夫しても思うような結果が出なくて悩む若い職人に老いた職人が、「業と自分が一体になる時点をつかむまで繰り返す以外にない」と励ます。

繰り返すことはリセットと違う。リセットは一瞬にしてスタートに戻ることだが、繰り返しははっきりした手ごたえに少しづつ近づくことである。失敗して、涙を流す日々があっても、繰り返すことだ。そのようにしてつかんだ知恵が、その人の「いのちの木」である。

(†心のデボーション01741)

† 心のデボーション 01742

「ダビデの子イスラエルの王ソロモンの箴言」 箴言1:1 明治元訳聖書

「ダビデの子イスラエルの王ソロモンの箴言」 新共同訳聖書

 「贖いの子」

ソロモンはダビデとバテシェバの間に生まれた第二子であった。彼らの第一子はダビデとバテシェバの犯した罪のために神に打たれて死んだ。

両親の罪によって誕生し、長くは生きられなかった子の悲しみは深い。罪は犯した本人ばかりでなく、その子にも及ぶとき、人は罪に対して慄きを禁じ得ないのである。

神はが第二子ソロモンを愛され(Ⅱサム12:25)というとき、神は名をもって呼ばれることもなく失われソロモンによって贖われた第一子をソロモン以上に愛されるに違いない。

(†心のデボーション01742)

† 心のデボーション 01743

「かくてヱホバその民のきずをつつみ そのうたれたる創痍をいやしたまふ日には月のひかりは日の光のごとく日のひかりは七倍をくはへて七の日のひかりの如くならん」 イザヤ30:26 明治元訳聖書

「主がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる日に、月の光は日の光のようになり、日の光は七倍になって、七つの日の光のようになる」 新改訳聖書

 「打たれた傷」

傷つけられてできた悲しみを怒りに転嫁してはいけない。怒りをぶつけても心の傷は癒されないからである。

傷つけられた悲しみから、自分は決して人を傷つけたくないというもの間違いである。人は無意識に人を傷つけてしまうものだからである。

心の傷は自分で抱えて癒さなければならない。主が「うたれた傷」を包んでくださる。

(†心のデボーション01743)

† 心のデボーション 01744

「たとひ我もろもろの國人の言および御使の言を語るとも、愛なくば鳴る鐘や響く鐃鈸の如し」 Ⅰコリント13:1 大正文語訳聖書

「愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです」 新改訳聖書

 「理解不能」

夫と妻は、時には、理解不能の関係に落ち込むことがある。

お互いが何を言いたいのか、何を言っているのかわからず、イライラとした空気につつまれる。しかし、うるさいと感じる部分にこそ大切なものが隠されているのではないだろうか。

耳をふさぎたくなるのは、認めたくない本心に踏み込まれているからではないか。お互いが正面から向き合う愛を見失っているので「うるさい」としか思えないのだ。

(†心のデボーション01744)

† 心のデボーション 01745

「子をその道に從ひて敎へよ 然ばその老たる時も之を離れじ」 箴言22:6 明治元訳聖書

「子をその行くべき道に従って教えよ、そうすれば年老いても、それを離れることがない」 口語訳聖書

 「子守歌」

朝日新聞日曜版編集部「へんな家族、だから大好き」から引用させていただく。

「一才半になる娘は、三人目ということもあり、親の手をわずらわせることもなく育っている。先日も、ひとり鼻歌を歌いながら眠りにつこうとしていたので「たまには」と思い、子守歌をうたってあげた。すると突然、ムクッと起き上がり「うーしゃい」(うるさい)と、思いきりひっぱたかれた。」

なれないことをするものではない。

(†心のデボーション01745)

† 心のデボーション 01746

「このヨハネは駱駝の毛織衣をまとひ、腰に皮の帶をしめ、蝗と野蜜とを食とせり」 マタイ3:4 大正文語訳聖書

「ヨハネは、身にらくだの毛衣をまとい、腰には皮の帯をしめていた。食べ物はいなごと野蜜であった」 フランシスコ会訳聖書

 「貧しさ」

牧師にとって「貧しさ」を知ることは大切な経験である。

筆者が聖書学塾で修業中のことである。

ある日、一人の男が教会を訪れ、金銭を乞うた。与える金もなく、ちょうど昼時だったので、「食事ならありますが」と言うと、嬉しそうに「食べる」と答えた。そこで食堂から一人分の、その日の昼食を運んだ。すると男はプレートを一目見て「乞食だからと言ってバカにするな」と顔色を変えて怒り、帰っていった。

男を怒らせたのは「貧しい食事」だったのか、それとも「プレート」に貧しさを見せた私に(その意思はなかったが)何らかの憤りを感じたものか、今となってはわからない。

(†心のデボーション01746)

† 心のデボーション 01747

「我をかへりみ我をあはれみたまへ ねがはくは汝のしもべに能力を與へ汝のはしための子をすくひたまへ」 詩篇86:16 明治元訳聖書

「私に御顔を向け、私をあわれんでください。あなたのしもべに御力を与え、あなたのはしための子をお救いください」 新改訳聖書

 「不自然な明るさ」

不自然に明るい人は内に不安を隠しているかもしれない。自分でもそれに触れたくないので、明るくふるまっているのだ。その人が自分の不安と向き合うことができるまでは、不自然な明るさを否定せずに付き合うとよい。変わらない関係に支えられて、人は自分と向き合う勇気を与えられる。

(†心のデボーション01747)

† 心のデボーション 01748

「また彼らの間に、己らの中たれか大ならんとの爭論おこりたれば」 ルカ22:24 大正文語訳聖書

「彼らの間には、この中でだれが一番偉いだろうかという議論も起こった」 新改訳聖書

 「だれが一番偉いか」

最後の晩餐の夜、ユダはイエスを裏切ろうとしていた。弟子たちは裏切るのはだれかという議論をはじめた。やがて、それは核心をはずれ「自分たちの中でだれが一番偉いか」という論争に変わったのである。

どんな状況からでも「だれが一番偉いか」という議論ははじまる。その言い争いがイエスをしめだし、ユダを生み出す。自分の偉さを知らない者が一番偉い。彼はそれすらも知らない。(ルカの福音書 九章四十八節)

(†心のデボーション01748)

† 心のデボーション 01749

「汝らは地の鹽なり、鹽もし效力を失はば、何をもてか之に鹽すべき。後は用なし、外にすてられて人に蹈まるるのみ」 マタイ5:13 大正文語訳聖書

「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである」 新共同訳聖書

 「人生の塩」

ラテン語格言に「友情は人生の塩である Amicitia sal vitae.」とある。

「友情」によって味付けられた人生ほど良きものはない。その友情は塩のように人生の腐敗をふせいでくれる。

ただ、辛すぎる友情は人生を台無しにする。

(†心のデボーション01749)

† 心のデボーション 01750

「ああヱホバよ公義をききたまへ わが哭聲にみこころをとめたまへ いつはりなき口唇よりいづる我がいのりに耳をかたぶけたまへ」 詩篇17:1 明治元訳聖書

「主よ、正しい訴えを聞き/わたしの叫びに耳を傾け/祈りに耳を向けてください。わたしの唇に欺きはありません」 新共同訳聖書

 「私の叫び」

「わたしの叫びに耳を傾け」は「Attend to my cry (New King James Version)」。 「Attend」は「at ~の方へ + tend 伸ばす」で「関心を向ける」を意味する。

作者は、神が「私の叫びに関心を向けてください」と祈る。「私の叫びに欺きはありません」と訴える。

(†心のデボーション01750)

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