† 心のデボーション 01731
「ヱホバいひたまはく 率われらともに論らはん なんぢらの罪は緋のごとくなるも雪のごとく白くなり紅のごとく赤くとも羊の毛のごとくにならん」 イザヤ1:1 明治元訳聖書
「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる」 新改訳聖書
「えんじ虫」
えんじ虫はカイガラムシ科の小さな昆虫でサボテンを好んで寄生する。メスは赤色で、つぶすと血の色をした汁が出る。それが服についたりすると血赤色のしみができて、なかなか消えない。
「緋のように赤い」は、えんじ虫の色素の事である。
罪が洗っても消えない血の色をしたしみであっても、神は雪よりも白くされる。
これは確かに時間をかけても「論じ合いたい」事がらではないか。
(†心のデボーション01731)
† 心のデボーション 01732
「然るに或るサマリヤ人、旅して其の許にきたり、之を見て憫み」 ルカ10:33 大正文語訳聖書
「ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い」 口語訳聖書
「傷つく人」
このサマリヤ人は傷ついた人がユダヤ人だから親切に介抱したのではない。たとえ同胞サマリヤ人であったとしても、ユダヤ人にしたと同じ事をしたのである。
真に助ける人は、傷ついた者の痛みのみを見て手を差し伸べる。
(†心のデボーション01732)
† 心のデボーション 01733
「汝神の作爲を考ふべし 神の曲たまひし者は誰かこれを直くすることを得ん」 伝道7:13 明治元訳聖書
「神のみわざに目を留めよ。神が曲げたものをだれがまっすぐにできようか」 新改訳聖書
「純粋さ」
「純粋さとは、汚れをじっと見つめうる力である。極限の純粋さは、純粋なものをも、不純なものをもじっと注視することができる。不純は、そのどちらもができない。純粋さは、かれ(人間)をおそれさせ、不純は、かれを呑みこむ。かれには、このふたつを混ぜ合わせたものが必要である。」 (シモーヌ・ヴェイユ「重力と恩寵」)
信仰は純粋なものをも、不純なものをもじっと注視することができる力を求める。
(†心のデボーション01733)
† 心のデボーション 01734
「されど主に在りては、女は男に由らざるなく、男は女に由らざるなし」 1コリント11:11 大正文語訳聖書
「女は男を離れてあるものではなく、男も女を離れてあるものではありません」 新改訳聖書
「奇妙な伝染病」
ある部族の集落で女性だけを襲い、感染すると必ず死ぬという伝染病が発生した。ついに女性が一人もいなくなると、それまで狩猟だ、祭りだと大張り切りだった男性が急速に老けこみ、間もなくこの集落は消滅したそうである。
男性にいのちの力を吹き込むのは女性かもしれない。
ところで、伝染病が女性ではなく、男性を襲うものだったら、やはり集落は消滅するだろうか。少しだけ気になる。
(†心のデボーション01734)
† 心のデボーション 01735
「わが體を打ち擲きて之を服從せしむ。恐らくは他人に宣傳へて自ら棄てらるる事あらん」 Ⅰコリント9:27 大正文語訳聖書
「むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです」 新共同訳聖書
「勝利のために」
「勝利は、苦労する人々を好む(勝利は準備を愛する)Amat victoria curam.」
勝つ者は空を打つような戦いをしない。意味なく身を打ちたたくようなこともしない。自ら伝えておきながら自分の方から失格者にならないために、自らを整える。
(†心のデボーション01735)
† 心のデボーション 01736
「このヨハネは駱駝の毛織衣をまとひ、腰に皮の帶をしめ、蝗と野蜜とを食とせり」 マタイ3:4 大正文語訳聖書
「ヨハネは、身にらくだの毛衣をまとい、腰には皮の帯をしめていた。食べ物はいなごと野蜜であった」 フランシスコ会訳聖書
「フィレンツェ市の守護聖人」
駱駝の毛織衣をまとったことから、バプテスマのヨハネは駱駝の皮をなめしたとして、毛織物、皮産業の盛んであったフィレンツェ市の守護聖人とされている。オルサンミケーレ教会には毛織物商組合が造ったバプテスマのヨハネ像がある。毎年6 月24日に祭りが行なわれる。
フィレンツェの毛織物商たちはバプテスマのヨハネに何を守ってもらおうとしたのだろうか?
(†心のデボーション01736)
† 心のデボーション 01737
「モーセその從者ヨシユアとともに起あがりモーセのぼりて神の山に至る」 出エジプト24:13 明治元訳聖書
「そこで、モーセとその従者ヨシュアは立ち上がり、モーセは神の山に登った」 新改訳聖書
「良き従者」
「助ける」を意味する英語 assist は「as ~の方へ + sist 立つ」で、「相手のそばに立つ」の意味である。
ヨシュアはモーセの「良き従者 assistant」(New King James Version )であった。
ヨシュ常にモーセの側に立ってモーセを補佐した。
(†心のデボーション01737)
† 心のデボーション 01738
「これは執る者には生命の樹なり これ持ものは福なり」 箴言3:18 明治元訳聖書
「知恵は、これを堅く握る者にはいのちの木である。これをつかんでいる者は幸いである」 新改訳聖書
「繰り返し」
いくら工夫しても思うような結果が出なくて悩む若い職人に老いた職人が、「業と自分が一体になる時点をつかむまで繰り返す以外にない」と励ます。
繰り返すことはリセットと違う。リセットは一瞬にしてスタートに戻ることだが、繰り返しははっきりした手ごたえに少しづつ近づくことである。失敗して、涙を流す日々があっても、繰り返すことだ。そのようにしてつかんだ知恵が、その人の「いのちの木」である。
(†心のデボーション01738)
† 心のデボーション 01739
「主はその名を『ねたみ』と言って、ねたむ神だからである」 出エジプト34:14 明治元訳聖書
「その名がねたみである主は、ねたむ神であるから」 新改訳聖書
「聖なる感情」
嫉妬の感情は人には決して理解してもらえないばかりか、自分にもよくわからない激しい感情である。しかし、嫉妬の感情は心の深みにあり、嫉妬して苦しむのは、まぎれもなく自分自身である。嫉妬は否定するだけでは解決できない愛の問題なのである。
出エジプト34:14には「主はその名を『ねたみ』」とあり、「妬み」は背後に聖なる感情が隠れている。
(†心のデボーション01739)
† 心のデボーション 01740
「御意のままにイエス・キリストに由り愛をもて己が子となさんことを定め給へり」 エペソ1:5 大正文語訳聖書
「イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです」 新共同訳聖書
「御意のままに」
神は私をイエス・キリストによってご自分の子としようとあらかじめ定めておられた。(エペソ1:5)
それは、「みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる」ためである。(ピリピ2:13 新改訳聖書)
パウロは自身を、「神のみこころにより、キリスト・イエスにあるいのちの約束によって、キリスト・イエスの使徒となったパウロ」と証ししている。(Ⅱテモテ1:1 新改訳聖書)
(†心のデボーション01740)
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