† 心のデボーション 01721
「直くあゆむ者はヱホバを畏れ 曲りてあゆむ者はこれを侮る」 箴言14:2 明治元訳聖書
「曲がって歩む者は、主をさげすむ」
「アンコール」
その日のアンコールは盛り上がった。少々の皮肉をこめて拍手すると、指揮者は嬉しそうに出てくるのがわかったからだ。みんながもっと強い拍手を送ると、上気した顔で出てくる。そして、アンコールは鳴りやまなかった。
音楽会の会場をでるとき、人を弄んだ自分に、気分は最低でだった。「主」をさげすんだのだ。
(†心のデボーション01721)
† 心のデボーション 01722
「されば汝が見しことと今あることと、後に成らんとする事とを録せ」 黙示1:19 大正文語訳聖書
「そこで、あなたの見たこと、現在のこと、今後起ろうとすることを、書きとめなさい」 口語訳聖書
「アルバム」
「アルバム album」は「alb 白い」からきた言葉で、白いスペースに思い出の写真を張ってゆくのが「アルバム」である。「アルバム」これから埋めていく沢山の記録を盛るための白いスペースである。
アルバムには神の恵みと祝福が張り付けられている。
(†心のデボーション01722)
† 心のデボーション 01723
「ダビデの子イスラエルの王ソロモンの箴言」 箴言1:1 明治元訳聖書
「ダビデの子イスラエルの王ソロモンの箴言」 新共同訳聖書
「箴言を語る人」
箴言を語る者は絶えず「思索し、探求する」人である。彼は「適切なことばを見いだそうとし、真理のことばを正しく書きとめる」。
「伝道者は知恵ある者であったが、そのうえ、知識を民に教えた。彼は思索し、探求し、多くの箴言をまとめた。伝道者は適切なことばを見いだそうとし、真理のことばを正しく書き残した。」 伝道12:9~10 新改訳聖書
(†心のデボーション01723)
† 心のデボーション 01724
「イエス言ひ給ふ『われに觸りし者あり、能力の我より出でたるを知る』」 ルカ8:46 大正文語訳聖書
「わたしから力が出て行くのを感じた」 新改訳聖書
「力を中に入れる」
長血を患った女が群衆に紛れ込んでイエスにさわると、たちどころに出血が止まった。この時、イエスはご自分から力が出て行くのを感じられた。女はイエスの力を自分の中に入れたのである。
いつになっても立ち直れない人に必要なのは、「力を中に入れる」ことである。それには、泣くのを止めて、自分はイエスにさわってもよいのだと自分を許さなければならない。自分にはその価値もないと責めていてはイエスに手を伸ばすことができない。
(†心のデボーション01724)
† 心のデボーション 01725
「また天より聲あり、曰く『これは我が愛しむ子、わが悦ぶ者なり』」 マタイ3:17 大正文語訳聖書
「そのとき、天から、「これはわが愛する子、わが心にかなう者である」という声がした」 フランシスコ会訳聖書
「自分をやめたい」
父親から「お前はだめだ」と突き放された少年が「自分をやめたくなった」と告白している。(岩川直樹著 「感情のABC」)
子どもにとって親に否定されるほど悲しいことはない。その子は「自分をやめてしまいたい」と思う。
「心にかなう者」とは「心に喜ぶ者」の意味で、永井直治訳聖書は「彼に於てわれ悅を得たり」と訳す。「あなたによって私に喜びが来た」と伝えるべきである。
(†心のデボーション01725)
† 心のデボーション 01726
「このヨハネは駱駝の毛織衣をまとひ、腰に皮の帶をしめ、蝗と野蜜とを食とせり」 マタイ3:4 大正文語訳聖書
「ヨハネは、身にらくだの毛衣をまとい、腰には皮の帯をしめていた。食べ物はいなごと野蜜であった」 フランシスコ会訳聖書
「聖なる衣装」
ヨハネは「ラクダの毛で織った衣」を身に着けていた。子どもの頃の防寒着に「らくだの股引」があった。あれは正確には「らくだ色の股引」で、本物のラクダの毛で織った股引は高価なものであるそうな。
「らくだの毛衣」は荒野に棲む者にふさわしい装束であり、ヨハネには「聖なる衣装」であった。
(†心のデボーション01726)
† 心のデボーション 01727
「己のごとくに之を愛すべし」 レビ記19:34 明治元訳聖書
「あなたは彼をあなた自身のように愛しなさい」 新改訳聖書
「もう一人の自分」
「友はもう一人の自分である Alter ipse amicus.」
友を自分自身のように愛しなさい。なぜなら、「友はもう一人の自分」なのだから。友を愛せないのは自分を愛していないからである。
(†心のデボーション01727)
† 心のデボーション 01728
「汝心に汝の兄弟を惡むべからず必ず汝の鄰人を勸戒むべし彼の故によりて罪を身にうくる勿れ」 レビ19:17 明治元訳聖書
「心の中であなたの身内の者を憎んではならない」 新改訳聖書
「憎しみ」
どうしても認めなければならないことは、人が破壊や崩壊を愛することもできることである。変化や成長を何よりも嫌い、すべての息あるものを殺してしまいたい心の動きである。愛が崩壊して、憎しみだけが生きているのかもしれない。
憎しみはより大きな憎しみを生む。どれほど生が悲惨でもそれを愛する以外に憎しみを克服することはできない。愛だけが、生が語りかける声に聴き、生とかかわることができる。
(†心のデボーション01728)
† 心のデボーション 01729
「しかしてヨナタンふたたびダビデに誓はしむかれを愛すればなり即ちおのれの生命を愛するごとく彼を愛せり」 Ⅰサムエル記20:17 明治元訳聖書
「そしてヨナタンは重ねてダビデに誓わせた。彼を愛したからである。ヨナタンは自分の命のように彼を愛していた」 口語訳聖書
「自分を愛するほどに」
友に助けを求められるだろうか?
友には迷惑をかけたくない。しかし、助けを求めるときに助けを求めなかったことが後で分かれば友は悲しむだろう。
助けを求められなくとも、窮地を知って手を差し伸べるのが真の友であろう。
サウル王の子ヨナタンはダビデを「自分を愛するほどに、愛していた」(Ⅰサムエル20:17)。ダビデのいのちを狙う父サウル王の怒りを恐れず、ダビデが求めなくても、いのちを救う情報を密かに伝えた。(Ⅰサムエル記20章)
(†心のデボーション01729)
† 心のデボーション 01730
「但しまた其處にて汝その神ヱホバを求むるあらんに若し心をつくし精神を盡してこれを求めなば之に遇ん」 申命4:29 明治元訳聖書
「しかしあなたたちは、その所からあなたの神、主を尋ね求めねばならない。心を尽くし、魂を尽くして求めるならば、あなたは神に出会うであろう」 新共同訳聖書
「アニメーション」
動画の「アニメ」は「生気、活気」を意味する animation の略記である。Animation は「anim 魂、息」からなる語で「いのちを吹き込む」ことである。動画作者 Animator は「生気を与える人」と呼ばれる。
作品にいのちを吹き込む人は生き生きとした息の人であるに違いない。
(†心のデボーション01730)
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