心のデボーション172

デボーション1
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† 心のデボーション 01711

「なんぢら己がために財寶を地に積むな、ここは蟲と錆とが損ひ、盜人うがちて盜むなり」 マタイ6:19 大正文語訳聖書

「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい」 新改訳聖書

 「美しい服」

イスラエルがエリコを攻撃したとき、アカンという兵士がぶんどり物から「金と銀とシヌアルの美しい外套一枚」を盗んだ。「美しい服」は金銀に次ぐ「宝」だった。

しかし、どんなに高価で美しい服でも、それを食い荒らす「虫」がいる。美しい服にひかれるなというのではなく、それを「たくわえて」虫のエサにするなというのである。

美しい服は、今着て楽しめばよい。

(†心のデボーション01711)

† 心のデボーション 01712

「主いひ給ふ『もし芥種一粒ほどの信仰あらば、此の桑の樹に「拔けて海に植れ」と言ふとも汝らに從ふべし』」 ルカ17:6 大正文語訳聖書

「ルカ 17:6 しかし主は言われた。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ』と言えば、言いつけどおりになるのです」 新改訳聖書

 「桑の木」

桑の木の根は強くて、普通では抜けない。桑の木に「根こそぎ海の中に植われ」というのは、不可能なことのたとえである。信仰は、桑の木を根ごと引き抜き、海に移れと命じる。普通ではできない不可能なことも可能と信じる力である。

(†心のデボーション01712)

† 心のデボーション 01713

「ダビデの子イスラエルの王ソロモンの箴言」 箴言1:1 明治元訳聖書

「ダビデの子イスラエルの王ソロモンの箴言」 新共同訳聖書

 「愚か者の箴言」

「愚かな者」も箴言を口にする。

「愚かな者が口にする箴言は、酔った人が手にして振り上げるいばらのようだ」 箴言26:9 口語訳聖書

「愚か者の箴言」は酒に酔った人が無茶苦茶に振りまわす茨のようで、手当たり次第に人を傷つける。

(†心のデボーション01713)

† 心のデボーション 01714

「痴なること子の心の中に繋がる 懲治の鞭これを逐いだす」 箴言22:15 明治元訳聖書

「愚かさは子どもの心につながれている」 新改訳聖書

 「甘えを知らない子」

親がアルコール中毒などの問題を抱えていると、子どもは小さい頃から、自分がこの親の面倒を見なくてはという責任感を持つ。しかし、どんな良い子でも、子どもが親の世話をやり遂げるのは無理である。責任を果たせなかった罪悪感から、そんな自分は幸せになってはいけないと思い込むこともある。親に甘えることをしていないために、人と親密な関係になるのが怖いという一面もある。子どもの心につながれているのは、親の「愚かさ」ではないだろうか。

(†心のデボーション01714)

† 心のデボーション 01715

「もし己の罪を言ひあらはさば、神は眞實にして正しければ、我らの罪を赦し、凡ての不義より我らを潔め給はん」 Ⅰヨハネ1:9 大正文語訳聖書

「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる」 口語訳聖書

 「罪の告白」

「告白する ὁμολογέω ホモろゲオー」は「ὁμός 同じ + λέγω 言う」で、心に偽りのない真実を言い現わす行為である。

罪の告白には、「罪」に対して「罪」と同じ認識に至らなければならない。人は自らの罪に対してもその全体を自覚できない。人を前にして行う告白には多くの偽りが混ざるのである。告白する者はその悲しみを携えて神の前に立つしかない。

しかし、神は告白未満の告白に対しても、イエスの故に「その罪を許し」給う。

(†心のデボーション01715)

† 心のデボーション 01716

「これ預言者イザヤによりて、斯く云はれし人なり、曰く 『荒野に呼はる者の聲す 『主の道を備へ、 その路すぢを直くせよ』」 マタイ3:3 大正文語訳聖書

「この人は預言者イザヤによって、『荒野で叫ぶ者の声がする。「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ」』と言われたその人である」 新改訳聖書

 「自分を呼び醒ます声」

一緒に暮らしていても、相手の存在に気づいていないことがある。会話はあっても、相手の存在に語っていない。その時、私は荒野にて「自分を呼び醒ます声」に聴くことをしていないのかもしれない。自分を呼ぶ声に応えることをしていないので、人に呼びかけることができない。

お互いの存在に呼びかけ、応えることによって、荒野に「主の道」は敷かれるのではないか。

(†心のデボーション01716)

† 心のデボーション 01717

「噫われ惱める人なるかな、此の死の體より我を救はん者は誰ぞ」 ロマ7:24 大正文語訳聖書

「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」 新共同訳聖書

 「死の体より」

ラテン語格言に「Aliis si licet, tibi non licet. たとえ他人に許されても、あなた自身には許されない」という。

たとえ人が許しても、自分を許せない自分というものがある。そういう自分がいる限り、人は人として生きていける。

(†心のデボーション01717)

† 心のデボーション 01718

「それ人のことは己が中にある靈のほかに誰か知る人あらん、斯くのごとく神のことは神の御靈のほかに知る者なし」 Ⅰコリント2:11 大正文語訳聖書

「人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょうか」 新改訳聖書

 「論理的矛盾」

論理的矛盾に耐えられない人、逆に全く平気な人というのもいる。耐えられない人は、論理的矛盾をそのままにすることができず、懸命に説明しようとしてくどくなる。平気な人は、相手に合わせることを優先するので、矛盾など、どこ吹く風と気にもしない。普段は理屈っぽいのに、やることは全く論理的でない人もいる。

人はそれぞれが自分の在り方をもっていて、それで矛盾しないのである。

(†心のデボーション01718)

† 心のデボーション 01719

「また誠に汝らに告ぐ、もし汝等のうち二人、何にても求むる事につき地にて心を一つにせば、天にいます我が父は之を成し給ふべし」 マタイ18:19 大正文語訳聖書

「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」 新改訳聖書

 「心を一つにして」

「心を一つにして」の英訳は「if two of you agree on earth」(New King James Version)である。

「agree」は「a ~の方へ + gree 喜び、慈悲深さ」で、「心から喜んで賛同する」の意味である。

「心を一つにする」のギリシャ語は「 συμφωνέω  スゆムふォーネオー」で「σύν 共に + φωνή 音を出す」で、「調和して響く」の意味である。

(†心のデボーション01719)

† 心のデボーション 01720

「ああ主よわがすべての願望はなんぢの前にあり わが嘆息はなんぢに隠るることなし」 詩篇38:9 明治元訳聖書

「わたしの主よ、わたしの願いはすべて御前にあり/嘆きもあなたには隠されていません」 新共同訳聖書

 「忘れられない記憶」

いつになっても忘れたいのに忘れられない記憶というものがある。それは忘れてはならない記憶なのかもしれない。忘れたいと思わずに、もっと深くに記憶しようという手もある。

苦しみは退けようとするとよけいに苦しくなる。苦しんでしまえば幾分か軽くなる。

(†心のデボーション01720)

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