† 心のデボーション 01691
「終にいたりて汝の身なんぢの體亡ぶる時なんぢ泣悲みていはん」 箴言5:11 明治元訳聖書
「そして、最後に至って、お前の肉と体が滅びる時に、お前は嘆くだろう。」 フランシスコ会訳聖書
「嘆きの天使像」
天才音楽家モーツアルトは1791年12月5日、粟粒疹熱のため35歳で亡くなり、翌日の12月6日に、シュテファン大聖堂の地下納骨堂に通じる狭い教壇で行なわれたが埋葬には参列者は一人もいなかったという。そのため、正確な埋葬場所もわからなくなってしまった。現在はウィーン郊外にあるザンクト・マルクス(St Marx)に記念碑が建てられ「嘆きの天使像」がある。
「嘆きの天使」は、灰色の服を着た死の世界の使者の依頼でモーツァルトが自らの為に作曲したという「レクイエム」を聞いて嘆くのだろうか。
(†心のデボーション01691)
† 心のデボーション 01692
「主の道を備へ、 その路すぢを直くせよ」 マタイ3:3 大正文語訳聖書
「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」 新共同訳聖書
「その路すぢを直くせよ」
死海の西岸にあるユダの荒野では、乾燥して草木のない、荒涼とした岩山がどこまでも広がっている。「主の道を備へ、 その路すぢを直くせよ」(マタイ3:3 大正文語訳聖書)は、そのような光景に語られたものである。
「岩山」の一つを崩すのにも絶望的な思いに立ちすくむ者に、見渡す限り果てもなく広がる巨大な岩山の連続する荒野に「平らかな道」をどのように「通せ」というのだろうか?
ユダの荒野のワジケルトにはワジ「枯れ川」の谷底にギリシャ正教の聖ジョージ修道院がある。岩山に埋め込まれるようにして建つこの修道院は、「主の道を備へ、 その路すぢを直くせよ」に対する人間の応答のようでもある。
(†心のデボーション01692)
† 心のデボーション 01693
「なんぢの羊の情况をよく知り なんぢの群に心を留めよ」 箴言27:23 明治元訳聖書
「あなたの羊の様子をよく知り、群れに心を留めておけ。
「羊の群れ」
自分がいる組織になじめなくて悩む人も少なくない。組織を去る前に、自分の価値観を確かめてみるとよいかもしれない。組織の価値観と自分の価値観があまりにも違っているなら、その組織ではよい仕事はできない。組織の価値観がそれほど耐え難い者でないのなら、それを楽しんでみるのもよいかもしれない。
自分とまったく違和感のない組織というのは存在しない。
(†心のデボーション01693)
† 心のデボーション 01694
「自ら欺くな、神は侮るべき者にあらず、人の播く所は、その刈る所とならん」 ガラテヤ6:7 大正文語訳聖書
「人は自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです」 新改訳聖書
「危険を楽しむ」
危険や不安は避けて通りたいというのが普通だが、人にはそれを楽しむ心もある。危険度が高ければ高いほど、またそれを見る観客が多いほど、生理的な覚醒は強くなる傾向がある。
問題はより強い刺激を求めているうちに安全の境界を踏み越えてしまうことである。それでも自分を危険にさらしていると、危険はいきなり現実に姿を変える。
(†心のデボーション01694)
† 心のデボーション 01695
「ヱホバをおもふわが思念はたのしみ深からん われヱホバによりて喜ぶべし」 詩篇104:34 明治元訳聖書
「どうか、わたしの歌が御心にかなうように。わたしは主によって喜び祝う」 新共同訳聖書
「ルビコン」
ジュリアス・シーザーは元老院の召喚命令に背いて軍を率いて南下し、「賽は投げられた Alea iacta est! 」と言ってルビコン川を渡った。「ここを渡れば人間世界の悲惨、渡らなければわが破滅」といったという。
ルビコン川は広いところでも川幅20mほどの小さい川であるが、それを渡るには大きな決断を必要とする。
引き返すことのできない地点というものがある。
することを決断したのです。
(†心のデボーション01695)
† 心のデボーション 01696
「今いまし、昔いまし、後きたり給ふ主なる全能の神いひ給ふ『我はアルパなり、オメガなり』」 黙示1:8 大正文語訳聖書
「神である主、常にいまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである」 新改訳聖書
「アルファとオメガ」
「アルファ」はギリシャ語のアルファベットの最初の文字であり、「オメガ」は最後の文字である。はじめを創造された神は終わりも創造される。
何かをはじめるときに、終わりを知っておく必要がある。遠くに投げられたものが放射線を描いて落ちるのを目で追うように、どこに落ち着くのかを見定めながら歩む。終わりの中に神を見ることができれば、はじまりにさらなる喜びがある。
(†心のデボーション01696)
† 心のデボーション 01697
「彼等を男女に造りたまへり彼等の創造られし日に神彼等を祝してかれらの名をアダムと名けたまへり」 創世記5:2 明治元訳聖書
「彼らを男と女とに創造された。彼らが創造された時、神は彼らを祝福して、その名をアダムと名づけられた」 新改訳聖書
「アダム」
「動物 animal」は「anim 魂、息」からくることばで「いのちが吹き込まれたもの」をあらわす。
神は地のちりで人を形造り、その鼻に「いのちの息」を吹き込まれた。そこで人は生きるものとなった。すべての動物 animal は「いのちの息」を吹き込まて生きるものとされた。この人間に神が「アダム 人間」と呼ばれたことによって、人は人間になった。(創世記5:2)
(†心のデボーション01697)
† 心のデボーション 01698
「されどヱホバはその避所なり」 詩篇14:6 明治元訳聖書
「主は必ず、避けどころとなってくださる」 新共同訳聖書
「避けどころ」
子どもを「決して叱らない」で育てようとすると、その子は挫折をしないまま大人になるかもしれない。そして、そのような子は社会に出てから、ほんの小さな挫折にも耐えられないだろう。挫折は小さく経験して、素早く立ち直る練習をしておいた方がよい。やがて、彼は「主が、避けどころ」になってくださることを知るだろう。
(†心のデボーション01698)
† 心のデボーション 01699
「又萬國の人なんぢらを幸福なる者ととなへん そは汝ら樂しき地となるべければなり 萬軍のヱホバこれをいふ」 マラキ3:12 明治元訳聖書
「諸国の民は皆、あなたたちを幸せな者と呼ぶ。あなたたちが喜びの国となるからだと万軍の主は言われる」 新共同訳聖書
「龍の首の珠」
かぐや姫は5人の求婚者に無理難題の条件を与える。その一人大納言大伴御行には「龍の首の珠」を持ってきてというものだった。「龍の首の珠」とは龍が持つ宝珠で如何なる望みも叶える力があるという。
結婚を夢見る女性はときどき、自分が願うことを思うがままに実現してくれる「龍の首の珠」を持つ男を求める。だが、大納言大伴御行といえども、そのような宝珠を探し出すことはできない。
(†心のデボーション01699)
† 心のデボーション 01700
「神穹蒼を作りて穹蒼の下の水と穹蒼の上の水とを判ちたまへり即ち斯なりぬ」 創世記1:7 明治元訳聖書
「神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった」 フランシスコ会訳聖書
「聖書の関心」
聖書は「人間の存在」、「いのち」に強い関心を寄せる。聖書の描く「宇宙」は、存在を創造された神と人間存在に関連する宇宙である。今日も、「宇宙」への理解は、それを認識する人間の存在に限定されることも、聖書の宇宙観に沿うものである。
(†心のデボーション01700)
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