心のデボーション169

デボーション1
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† 心のデボーション 01681

「なんぢら愼みをののきて罪ををかすなかれ 臥床にておのが心にかたりて默せ セラ」 詩篇4:4 明治元訳聖書

「床の上で自分の心に語り、静まれ」 新改訳聖書

 「静まる」

頼まれると断ることができず、どんなことでも平気で引き受けてしまう。しかし、約束したことに責任を持つわけではなく、何とかなるとしか考えていない。一見頼りがいのある活動的な人だが、その軽率な言動で絶えず周囲を悩ませる。

動くのが楽しいだけでは行動的といえない。行動をおこす前に、「床の上」で心に語り、行動を終えてから再び「床の上」で静まることが本当の行動を支える。

(†心のデボーション01681)

† 心のデボーション 01682

「主の道を備へ、 その路すぢを直くせよ」 マタイ3:3 大正文語訳聖書

「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」 新共同訳聖書

 「苦難の道」

イザヤの預言した「主の道」は、やがてイエスが十字架を負って歩かれた「ヴィア・ドロローサ」 ラテン語:Via Dolorosa「苦難の道」と呼ばれる。(ヴィア・クルシス via cruces 「十字架の道」とも呼ばれている)

ヴィア・ドロローサはエルサレム旧市街北東のライオン門付近から旧市街北西の聖墳墓教会内にあるイエスの墓までとされる。

しかし、「主の道」は「イエスの墓」が終点ではなく、黙示録22:14「彼らは生命の樹にゆく權威を與へられ、門を通りて都に入ることを得るなり」をもって終点とする長い道程である。

(†心のデボーション01682)

† 心のデボーション 01683

「ペリシテ人の諸伯いひけるは是等のヘブル人は何なるやアキシ、ペリシテ人の諸伯にいひけるは此はイスラエルの王サウルの僕ダビデにあらずやかれ此日ごろ此年ごろ我とともにをりしがその逃げおちし日より今日にいたるまで我かれの身に咎あるを見ずと」 Ⅰサムエル29:3 明治元訳聖書

「ペリシテの武将たちは尋ねた。「このヘブライ人らは何者だ。」アキシュがペリシテの武将たちに答えた。「イスラエルの王サウルの僕であったダビデだ。彼はこの一、二年、わたしのもとにいるが、身を寄せて来たときから今日まで、わたしは彼に何の欠点も見いだせない。」 新共同訳聖書

 「弱みと強み」

自分が何に強く、何に弱いかは、わかるようでわからないところがある。生かすなら、弱みよりも、強みを伸ばすほうがよいという。弱みを克服するよりも、強みをより活用すれば、それが弱みをカバーしてくれる。自分の中で長年続くやり方はその人の強みかもしれない。

ダビデはペリシテの武将たちから「何の欠点も見いだせない」と言われたが、欠点がなかったのではなく、長所がより生かされたのだ。

(†心のデボーション01683)

† 心のデボーション 01684

「時にヨブの三人の友この一切の災禍の彼に臨めるを聞き各々おのれの處よりして來れり 即ちテマン人エリパズ、シユヒ人ビルダデおよびマアナ人ゾパル是なり 彼らヨブを弔りかつ慰めんとて互に約してきたりしが」 ヨブ2:11 明治元訳聖書

「ヨブ 2:11 時に、ヨブの三人の友がこのすべての災のヨブに臨んだのを聞いて、めいめい自分の所から尋ねて来た。すなわちテマンびとエリパズ、シュヒびとビルダデ、ナアマびとゾパルである。彼らはヨブをいたわり、慰めようとして、たがいに約束してきたのである」 口語訳聖書

 「ヨブの友」

ヨブの三人の友人は、ヨブが不運に見舞われたと聞いて駆けつけてきた。しかし、人の不運に集まる友というのは、しばしば、不運を確かめたいだけの友であることが多い。幸運に集まる友と同じように、暗い魂胆が隠されているのだ。

(†心のデボーション01684)

† 心のデボーション 01685

「汝もし患難の日に氣を挫かば汝の力は弱し」 箴言24:10 明治元訳聖書

「もしあなたが悩みの日に気をくじくならば、あなたの力は弱い」 口語訳聖書

 「一匹の蟻」

「ある日、一匹の蟻が大樹の根元に張り付き、いつか、樹が倒れるのを信じて、黒く強烈な顎を大きくあけて、樹を噛んだ。樹に針の先ほどの穴があき、穴は蟻ほどに広がり、蟻は穴に潜り、姿は見えなくなった。」

畑で知らずに壊した蟻の巣から小さな蟻に身体を刺されて幾日も痛みが残った私は、この話の蟻を身のほどを知らないと笑うことはできない。小さな者の力はときに大樹も倒す。

自分の力は小さいと諦める人は、悩みの日に力を出そうとはしない。

(†心のデボーション01685)

† 心のデボーション 01686

「然ば汝の心より憂を去り 汝の身より惡き者を除け」 伝道11:10 明治元訳聖書

「あなたの心から悩みを去り、あなたのからだから痛みを除け」 口語訳聖書

 「基本的な問題」

P・F・ドラッカーは問題解決のために、まず「基本的な問題か」「例外的な問題か」を問わなければならないという。「基本的な問題」は原則や手順を通じて解決し、「例外的な問題」はその状況に従い個別の問題として解決する。しかし、「実際には、真に例外的な問題というのはきわめて少ない」という。そして、「圧倒的に多く見られる間違いは、一般的な状況を特殊な問題の連続と見ることである」と指摘している。(P・F・ドラッカー 「プロフェッショナルの条件」)

人の心の問題も同じ原則があてはめられるだろうか?

(†心のデボーション01686)

† 心のデボーション 01687

「神穹蒼を作りて穹蒼の下の水と穹蒼の上の水とを判ちたまへり即ち斯なりぬ」 創世記1:7 明治元訳聖書

「神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった」 フランシスコ会訳聖書

 「恵みの雨」

ヨブは神が「水を濃い雲の中に包まれ」、「その下の雲は裂けない」と語る。(ヨブ26:8 新改訳聖書)

雲から「天の水」は「恵みの雨」として地を潤す。神は「雲が裂け」大水として地を押し流すことのないように守られている。神の恵みは地を潤す春の雨のように人に注がれるのである。

(†心のデボーション01687)

† 心のデボーション 01688

「然れども我は敵人の怒を恐る即ち敵人どれを見あやまりて言ん我らの手能くこれを爲り是はすべてヱホバの爲るにあらずと 32:28 彼らはまつたく智慧なき民なりその中には知識ある者なし」 申命記32:27~28 明治元訳聖書

「もし、敵が高ぶり、苦しめる者が誤解して「我々の手が勝ちを得た。これを成し遂げたのは主ではない」と言うのをわたしが恐れなかったならば。彼らは思慮に欠けた国民、彼らには洞察する力がない」 新共同訳聖書

 「江戸しぐさ」

外山滋比古さんが「江戸しぐさ」ということばがあると教えてくれている。

「昔、江戸の人が人通りの多い道ですれちがうとき、互いに内側に肩をすこし後ろに引く。そうすると体が触れ合わなくてすむ。江戸時代にはそういうマナーがあったのである」 (外山滋比古『頭の旅』)

今やれば、いわれなく人を避けているのではないかと疑われるかもしれない。「しぐさ」は相手に通じないと誤解される。誤解をさける気配りが求められる。

(†心のデボーション01688)

† 心のデボーション 01689

「それ有てる人は、なほ與へられ、有たぬ人は、有てる物をも取らるべし」 マルコ4:25 大正文語訳聖書

「持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っているものまでも取り上げられてしまいます」 新改訳聖書

 「持っている人」

「裕福な」の英語 affluent の語源は「~に向かって+流れ込む」で、富があるれ出るように流れ込むの意味である。

持てる人は、されに与えられる。しかし、金銭だけが増えても「持っているものまで取り上げられる」人もいる。そのような人を「裕福な人」とは言えない。

(†心のデボーション01689)

† 心のデボーション 01690

「ダビデの子イスラエルの王ソロモンの箴言」 箴言1:1 明治元訳聖書

「ダビデの子イスラエルの王ソロモンの箴言」 新共同訳聖書

 「神の叡智によって」

ソロモンは父ダビデの王座を引き継ぎ、その王位を確立した。

「ソロモンは父ダビデの王座に着き、その王位は確立した。」 Ⅰ列王2:12 新改訳聖書

「神は、ソロモンに非常に豊かな知恵と英知と、海辺の砂浜のように広い心とを与えられた。」 Ⅰ列王4:29 新改訳聖書

真の権威は力によるものではなく、神の叡智による。

(†心のデボーション01690)

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