† 心のデボーション 01661
「ムシヤに近づき、ビテニヤに往かんと試みたれど、イエスの御靈ゆるし給はず」 使徒16:7 大正文語訳聖書
「イエスの御霊がそれをお許しにならなかった」 新改訳聖書
「導き」
パウロは小アジアでの宣教を御霊に禁じられ、ビテニヤに行こうとして、その道も閉ざされます。すっかり、導きを見失ってしまったのである。その道を下ってトロアスに着いたところで、行くべき地が「マケドニヤ」であることが夜の幻にわかる。
やり方を変えてもうまくいかない時は、別のゴールがあるのかもしれない。しかし、新しいゴールが見えてくるまでは古いゴールを捨てないことだ。
(†心のデボーション01661)
† 心のデボーション 01662
「荒野に呼はる者の聲す」 マタイ3:3 大正文語訳聖書
「荒野で叫ぶ者の声がする」 新改訳聖書
「細き聲」
日本学生宣教会の「Small Voice 細き聲 聖書研究」の「細き聲」は、「大いなる強き風山を裂き岩石を砕きしが風の中にはエホバ在さざりき、風の後に地震ありしが地震の中にはエホバ在さざりき。又地震の後に火ありしが、火の中にはエホバ在さざりき、火の後に静なる細微き声ありき。Ⅰ列王記19:11,12 明治元訳聖書 から「声」に対して「聲」をあてて名づけた。
「聲」は、耳で声を聞くさまを示す意味があり、神の「細微(ほそ)き声」を聞こうする者の姿をあらわす漢字である。
(†心のデボーション01662)
† 心のデボーション 01663
「神の爲したまふところは皆その時に適ひて美麗しかり 神はまた人の心に永遠をおもふの思念を賦けたまへり 然ば人は神のなしたまふ作爲を始より終まで知明むることを得ざるなり」 伝道3:11 明治元訳聖書
「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」 新改訳聖書
「意味を離れて」
意味を求めることは大切である。しかし、ときに意味から離れて好きなことをするのもよい。好きなことに取り組んでいる間に意味が新しく生まれることもあるからだ。
神のなさることは意味を超えて美しい。
(†心のデボーション01663)
† 心のデボーション 01664
「百合を思ひ見よ、紡がず、織らざるなり。されど我なんぢらに告ぐ、榮華を極めたるソロモンだに、其の服裝この花の一つにも及かざりき」 ルカ12:27 大正文語訳聖書
「ゆりの花のことを考えてみなさい。紡ぎもせず、織りもしないのです」 新改訳聖書
「花嫁の条件」
むつを使って羊の毛を糸に紡ぐのは、時間も手間もかかる辛い仕事である。そこで、糸を上手に紡ぐことのできるのが「花嫁の条件」とされた。野のユリは「紡ぎ」も「織り」もしないのに美しく育つではないかと主イエスは語られる。じゃあ、紡ぎも織りもしなくてもいいんだと安心しないことだ。
あなたはもともと美しく、それが「紡ぐ」「織る」という辛い仕事に耐えて花に咲くのだから。
(†心のデボーション01664)
† 心のデボーション 01665
「わが子よ我が言をきけ 我が語るところに汝の耳を傾けよ」 箴言4:20 明治元訳聖書
「わが子よ、わたしの言うことをよく聞け。わたしの言葉に耳を傾けよ。」 フランシスコ会訳聖書
「粘着力」
「執着」は英語で adhere で「ad ~の方へ + her 粘着する」、あるものにしっかり張り付くの意味である。
「Many people adhere to the church of their paents. 親と同じ信仰を信奉する人が多い」と言ったりする。子どものときからの信仰はそれだけ「粘着力」が強い。しかし、いつかは、自分の粘着力で神に向かう時が来るようだ。
(†心のデボーション01665)
† 心のデボーション 01666
「答へて言ふ『なんぢ心を盡し精神を盡し、力を盡し、思を盡して、主たる汝の神を愛すべし。また己のごとく汝の隣を愛すべし』」 ルカ10:27 大正文語訳聖書
「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」 新改訳聖書
「隣人」
二人が砂漠にいてパンが一つしかない時、奪い合うのも愚かである。たとえ、パンを奪い取っても相手が死んでしまえば、自分も死ぬことになるからである。
相手と共に生きる方法を考えなければならない。そういう関係を聖書は「友」と呼び、「隣人」と呼ぶ。
一人砂漠で生きることは絶対にできない。
(†心のデボーション01666)
† 心のデボーション 01667
「ヨブよ是を聽け 立ちて神の奇妙き工作を考がへよ」 ヨブ37:14 明治元訳聖書
「ヨブよ、耳を傾け、神の驚くべき御業について、よく考えよ」 新共同訳聖書
「口耳四寸の学」
「荀子」に「口耳四寸の学」ということばがあるという。耳で聞いたことをそのまま人に伝えるだけの、身につかない学問の意味である。「受け売り学問」である。インターネットでは「切り貼り」のピコペ論文といったところか。あまりに便利なのでついついやってしまう。
苦しみは「口耳四寸の学」では明かされない。
(†心のデボーション01667)
† 心のデボーション 01668
「我また身をめぐらして日の下を觀るに 迅速者走ることに勝にあらず強者戰爭に勝にあらず 智慧者食物を獲にあらず 明哲人財貨を得にあらず 知識人恩顧を得にあらず 凡て人に臨むところの事は時ある者偶然なる者なり」 伝道9:11 明治元訳聖書
「わたしはまた日の下を見たが、必ずしも速い者が競走に勝つのではなく、強い者が戦いに勝つのでもない。また賢い者がパンを得るのでもなく、さとき者が富を得るのでもない。また知識ある者が恵みを得るのでもない。しかし時と災難はすべての人に臨む」 口語訳聖書
「力にまさる知恵」
日常が変われば自分は変われると思いがちだが、自分を変えないと日常は変わらないものだ。それには日常の中の自分を見直してみるとよいかもしれない。
そこから見出せるものは「力にまさる知恵」(伝道9:17)かもしれない。
(†心のデボーション01668)
† 心のデボーション 01669
「神言たまひけるは水の中に穹蒼ありて水と水とを分つべし」 創世1:6 明治元訳聖書
「神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ」 新共同訳聖書
「大空」
「大空 רָקִיעַ ラキーア」は「打ち延ばす」に由来する語で「大空」を意味する。金属を打ち叩いて引き伸ばすように「大空」を創られ、すべてを覆う「水」を上と下に区別された。
詩篇は、「天と地」を「張り伸ばされた広がり」と創造される神に感謝せよという。
「地を水のうへに布たまへるものに感謝せよ そのあはれみは永遠にたゆることなければなり」 詩篇136:6 明治元訳聖書
「あなたは、鋳た鏡のように堅い大空を神とともに張り延ばすことができるのか」 ヨブ37:18 新改訳聖書
(†心のデボーション01669)
† 心のデボーション 01670
「孰の家に入るとも、先づ平安この家にあれと言へ」 ルカ10:5 大正文語訳聖書
「どこかの家にはいったら、まず『平安がこの家にあるように』と言いなさい」 口語訳聖書
「無事航海を!」
船の引き渡し式では新しい船内の見学がある。乗船するときには整列したクルーが「Welcome on Board」と迎え、下船するときは見学者がクルーに「Bon Voyage ! 無事航海を!」と言って別れをつける習慣になっている。
人との別れのとき「Bon Voyage ! 無事航海を!」と挨拶を交わすのもよいかもしれない。
ユダヤ人の挨拶はヘブル語で「シャローム 平安」、ギリシャ語で「エイレーネー 平安がこの家にあるように」である。
(†心のデボーション01670)
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