† 心のデボーション 01641
「裂に時あり縫に時あり 默すに時あり語るに時あり」 伝道3:7 明治元訳聖書
「引き裂くのに時があり、縫い合わせるのに時がある」 新改訳聖書
「縫い合わせる時」
ある人がスペインの母の話をしている。
この人は同胞スペインの兵士に夫を殺された。彼女には夫を殺した同胞への憎しみが残った。しかし、戦争が終わって、彼女は子どもたちを集め「私たちはこれから、お父様を殺した人を許すことを一生の仕事にしなければなりません」と語ったのである。
これからは許すこと、愛することを一生の仕事にしなければならないと自分自分に語らなければならない時がどの人生にもある。
(†心のデボーション01641)
† 心のデボーション 01642
「ねがはくはヨブ終まで試みられんことを其は惡き人のごとくに應答をなせばなり」 ヨブ34:36 明治元訳聖書
「悪人のような答え方をヨブはする。彼を徹底的に試すべきだ」 新共同訳聖書
「エリフの弁明」
エリフは、ヨブが三人の友人たちに、「悪人のような答え方をする」ので「徹底的に試すべきだ」と述べる。
「徹底」は「底まで貫き通す」ことの意味で中途半場でなく、すみずみまで行き届くこと。
自分の正義を信じる者は相手の不義を徹底的に試みる。しかし、人を責める者もまた「不義なる者」である。
(†心のデボーション01642)
† 心のデボーション 01643
「言ふ我裸にて母の胎を出たり 又裸にて彼處に歸らん ヱホバ與へヱホバ取たまふなり ヱホバの御名は讚べきかな」 ヨブ1:21 明治元訳聖書
「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」 新改訳聖書
「脱衣婆」
「十王経」によると、人は死んで七日目に三途の川に来る。川畔に脱衣婆が亡者の衣を剥ぎ取り、それを懸衣翁が衣領樹という木に懸けて、その重さを計る。衣の重さは生前に犯した罪の重さで、それによって三途の川の渡る場所が決まる。衣の重いものは急流を、軽い者は浅瀬を渡るのだという。
三途の川を渡るには余計なものを衣にいれてゆくべきではないのかもしれない。
(†心のデボーション01643)
† 心のデボーション 01644
「なんぢら眼をあげて高をみよ たれか此等のものを創造せしやをおもへ」 イザヤ40:26 明治元訳聖書
「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。」 新改訳聖書
「無為」
河合隼雄さんによるとアメリカ先住民のジョシュアの神話では創造主が2人いて、一人はコラワシと呼ばれ、一人は名がない。コラワシは造られた世界を歩き回るが人間の足跡をみるとぞっとして洪水を起こして破壊してしまう。そんなことが繰り返されると、もう一人の名無しの神は三日間煙草を吸っているとひとつの家が出現し、美しい女性が出てきて名無しの神と結婚し、16人の子どもが生まれ、アメリカの先住民の種族となる。
河合さんはこの神話から「実際に我々が創造活動に従事するとき、あれこれと積極的に考えたりなどしても失敗に終わってしまい、むしろぼうっとしているときに創造のきっかけが生じることがある」と言っている。
しかし、この創造力を秘めた「ぼうっとしている」ことが簡単ではないのだ。
(†心のデボーション01644)
† 心のデボーション 01645
「汝ら憂ふべし、然れどその憂は喜悦とならん」 ヨハネ16:20 大正文語訳聖書
「あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります」 新改訳聖書
「うろうろする」
あてもなくあちこち歩き回るのを「うろうろする」と言う。
仏教では「うろうろ」は「有漏有漏」で、「漏」は流れでること。「有漏」は煩悩にどうしてよいかわからずに、あちこちを動き回る煩悩を意味し、「無漏」は煩悩のない悟りを指すという。
しかし、すべて「漏れのない」きっちりした心でいるよりも、適当に「漏れ」のある心で「うろうろ」してみる方がよい場合もある。
(†心のデボーション01645)
† 心のデボーション 01646
「御言を教へらるる人は、教ふる人と凡ての善き物を共にせよ」 ガラテヤ6:6 大正文語訳聖書
「すべての良いものを分け合いなさい」 新改訳聖書
「良いものを分け合う」
エサ場にくず米を置くと、静かにしていたスズメがチッチッと鳴く。すると別の方向からも、チッチッと応える。しばらくすると、ジュジュジュジュと連続して鳴くのが安全の合図なのだろうか。スズメたちが降りてくる。
スズメは一羽でエサ場に来ることは決してない。一羽が食べている間は仲間があたりを警戒し、食べ終わった者は見張りに回る。一人占めしないのが自然の掟らしい。
(†心のデボーション01646)
† 心のデボーション 01647
「ああ美しきかな、善き事を告ぐる者の足よ」 ロマ10:15 大正文語訳聖書
「善い知らせをもたらす者の足は何と美しいことか」 フランシスコ会訳聖書
「善き事を告ぐる者の足」
「悪事千里を走る」は英語で Bad news travels fast. Bad news has wings. とも言う。
「悪い知らせ」は「鷲の翼」をもち、伝わるのが早いだけでなく、実に遠くまで届くが、「良い知らせ」は伝わりにくい。「良い知らせ」は「悪い知らせ」程には隣人に伝えにくいのだ。
良い知らせを伝える者の足は長旅に汚れるが美しい。
(†心のデボーション01647)
† 心のデボーション 01648
「彼往てベエルシバの曠野(あらの)に躑躅(さまよひ)しが」 創世記21:14 明治元訳聖書
「ハガルは立ち去り、ベエル・シェバの荒れ野をさまよった」 新共同訳聖書
「ベエル・シェバの荒野」
ハガルは女主人サラから逃れて背中にパンと水の革袋を負い、子どもの手をとってベエル・シェバの荒野を彷徨った。ダビデはサウル王の追手を逃れてマオンの荒野にとどまった。「荒野」は「逃れ場」である。吹き荒ぶ風を神の声と聴く場所である。
(†心のデボーション01648)
† 心のデボーション 01649
「汝その口の言によりてわなにかかり その口の言によりてとらへらるるなり」 箴言6:2 明治元訳聖書
「あなたの口のことばによって、あなた自身がわなにかかり、あなたの口のことばによって、捕らえられたなら、」 新改訳聖書
「ことばの罠」
会話を楽しむには会話の裏側にあるものに気づく必要もある。しかし、あまり深読みすると間違う。人の心にあるものは自分自身の内も含めて判らないことが多くある。隠れた欲求や感情をそれとなく教えてくれるのが真の会話なのかもしれない。
小さな一つのことばから会話が行き違うことも少なくない。「ことばの罠」にかかってしまったのだ。
(†心のデボーション01649)
† 心のデボーション 01650
「彼らは慘しき病に死し哀まれず葬られずして糞土のごとくに田地の面にあらんまた劍と饑饉に滅されて其屍は天空の鳥と地の獸の食物とならん」 エレミヤ16:4 明治元訳聖書
「彼らは死の病にかかって死に、哀悼する者もなく、埋葬する者もなく、地のおもてに、糞土のようになる。またつるぎと、ききんに滅ぼされて、その死体は空の鳥と地の獣の食い物となる。」 口語訳聖書
「死者の葬り」
北ヨーロッパ地方では古くから王侯貴族の遺体は心臓とそれ以外の内臓と残りの遺体を3つに分けて葬る習慣があり、ハプスブルク家では、体はカプツィーナー納骨堂に、心臓はアウグスティーナー教会に、その他の内臓はここシュテファン大聖堂にそれぞれ納められているという。
葬りの形はいろいろである。死者を丁寧に葬ることのできる時代は幸いとすべきであろう。
「死の病」にかかって「哀悼する者もなく、埋葬する者もなく、地のおもてに、糞土のようになる」というエレミヤが預言した時代もある。
(†心のデボーション01650)
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