心のデボーション164

デボーション1
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† 心のデボーション 01631

「我一人にては爭で汝らを吾任となしまた汝らの重負と汝らの爭競に當ることを得んや」 申命記1:12 明治元訳聖書

「私ひとりで、どうして、あなたがたのもめごとと重荷と争いを背負いけれよう」 新改訳聖書

 「重荷を背負う」

モーセは疲れていた。民の「もめごとと重荷と争い」がことごとくモーセに負わされたからである。

「重荷を負う」は「あなたがたを背負う」という意味である。人の重荷を負うとは、その人自身を背負うことである。

しかし、人は他人のすべてを背負うことはできない。時には、勇気をだして、「どうして私にあなたを背負いきれようか」と告白する必要もある。重荷はその人自身のものであり、人は自分でそれを負う力をもっているのである。

(†心のデボーション01631)

† 心のデボーション 01632

「汝らは只謊言を造り設くる者 汝らは皆無用の醫師なり」 ヨブ13:4 明治元訳聖書

「しかし、あなたがたは偽りをでっちあげる者、あなたがたはみな、能なしの医者だ」 新改訳聖書

 「やぶ医者」

「やぶ医者」というが「やぶ」はもともと「野巫(野にある巫)」の意味だそうである。「巫(ふ、かんなぎ)」は舞を舞って神をおろし,祈って神意をうかがった。古代には「巫」は医者をかねた。

「野巫(やぶ)医者」は田舎の巫医(ふい)で、呪術で病をいやしたが、次第に呪術しかつかえない医者をさすようになった。

ヨブの友人はヨブを傷つけるだけの、「とんだやぶ医者」だった。

(†心のデボーション01632)

† 心のデボーション 01633

「されど我らには神これを御靈によりて顯し給へり。御靈はすべての事を究め、神の深き所まで究むればなり」 Ⅰコリント2:10 大正文語訳聖書

「そして、それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである」 口語訳聖書

 「心の深み」

「個人的な部分をより深く掘り下げていくと、人は、より普遍的になる。充分に深く掘り下げること、それが肝心。イメージを見つけること」 (メイ・サートン 「わたしの愛する孤独」より)

「個人的な部分をより深く掘り下げる」には一切の弁解を退けて、事実を見つめることができなければならない。神の深みに近づく

(†心のデボーション01633)

† 心のデボーション 01634

「ヱホバは地のはてまでも戰闘をやめしめ弓ををり戈をたち戰車を火にてやきたまふ」 詩篇46:9 明治元訳聖

「主は地のはてまでも戦いをやめさせ、弓を折り、やりを断ち、戦車を火で焼かれる」 口語訳聖書

 「仏の顔も三度」

「仏の顔も三度」という諺のもとになったのは、コーサラ国と釈迦族の争いからという。昔、コーサラ国は支配下の釈迦族から妃をむかえよとするが、それを好まない釈迦族が身分の低い女性を高貴な娘と偽って送り込み、生まれた子がコーサラ国王になるが、自らの出自を知って怒り釈迦族に攻め込む。釈迦はそれを知ってひとりコーサラ国の兵をなだめること三度に及び、四度目には悪かったのは釈迦族であることを認め説得をやめた。これによりコーサラ国は釈迦族を滅ぼすが、戦いの七日後、コーサラ国王も嵐に襲われて命を落としてしまう。

「仏の顔も三度」は釈迦族にもコーサラ国にも向けられた教えだったのだろう。

(†心のデボーション01634)

† 心のデボーション 01635

「今われらは鏡をもて見るごとく見るところ朧なり。然れど、かの時には顏を對せて相見ん。今わが知るところ全からず、然れど、かの時には我が知られたる如く全く知るべし」 Ⅰコリント13:12 大正文語訳聖書

「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ています」 新改訳聖書

 「私という面」

能役者は「鏡の間」で、大きな鏡に向かって「面」をつける。面に自分のすべてを投入する。

人は自分のすべてを知らず、ただ「鏡にぼんやり映る」のを見るだけである。私を「完全に」知るのは、私ではなく神である。そして、終りの日に、私たちは自分を完全に知ることになる。それまで、私たちは「ぼんやりとした鏡」に向かって自分を見つめる。今日、私という面に何を投入し、どういう表情を与えようとするのだろうか。

(†心のデボーション01635)

† 心のデボーション 01636

「荒野に呼はる者の聲す」 マタイ3:3 大正文語訳聖書

「荒野で叫ぶ者の声がする」 新改訳聖書

 「神の知識に欠けた地」

「荒れ野 ἔρημος エレーモス 」には「神の知識に欠けた土地、異邦人の地」(ユスティノス「ユダヤ人トリュフォンとの対話」)の意味がある。

よく整備された快適な都市も「神の知識に欠けた地」であれば、そこは「荒れ野」である。知識にあふれた人であても「神の知識に欠ける」ならその知識は「荒れ野」の荒廃を免れない。

(†心のデボーション01636)

† 心のデボーション 01637

「斯る人はこの呪詛の言を聞もその心に自ら幸福なりと思ひて言ん我はわが心を剛愎にして事をなすも尚平安なり終には酔飽る者をもて渇ける者を除くにいたらんと 」 申命記29:18 明治元訳聖書

「もし、この呪いの誓いの言葉を聞いても、祝福されていると思い込み、『わたしは自分のかたくなな思いに従って歩んでも、大丈夫だ』と言うならば、潤っている者も渇いている者と共に滅びる。」 新共同訳聖書

 「幻想」

人の心には幻想を生み出す力がある。生み出された幻想のすべて悪いものではなく、幻想によって生きる力が生まれることもある。しかし、どのような場合にも、幻想は現実ではないことを知る必要がある。幻想と現実の境界がなくなってしまうと幻想から戻れなくなってしまう。

(†心のデボーション01637)

† 心のデボーション 01638

「我なんぢに勸む、なんぢ我より火にて煉りたる金を買ひて富め、白き衣を買ひて身に纏ひ、なんぢの裸體の恥を露さざれ、眼藥を買ひて汝の目に塗り、見ることを得よ」 黙示3:18 大正文語訳聖書

「目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい」

 「目薬」

ダビデは苛立つことがあり、「目も、たましいも、はらわたも衰えた」と告白している。(詩篇 三十一篇九節)ヨブは悲しみのために「目はかすみ、からだは影のようだ」と語る。(ヨブ記 十七章七節)

目がかすむと視野がせばまり、希望が見えなくなる。「目に塗る目薬」が必要だ。ペテロは「信仰と希望は神にかかっているのです」と答える。神の目薬はよく効く。

(†心のデボーション01638)

† 心のデボーション 01639

「我心を盡して智慧を知んとし狂妄と愚癡を知んとしたりしが 是も亦風を捕ふるがごとくなるを暁れり」 伝道1:17 明治元訳聖書

「私は、一心に知恵と知識を、狂気と愚かさを知ろうとした。それもまた風を追うようなものであることを知った。」 新改訳聖書

 「無分別智」

「無分別」は思慮に欠けた軽率なことを意味するが、仏教では執着からななれた物事にとらわれない悟りを意味し「無分別智」と呼ばれる。分別を超えた智である。

伝道者は「知恵と知識を、狂気と愚かさを知ろうとした」が、それもまた「風を追うようなものであることを知った」という。

(†心のデボーション01639)

† 心のデボーション 01640

「裸なりしときに衣せ、病みしときに訪ひ、獄に在りしときに來りたればなり」 マタイ25:36 大正文語訳聖書

「わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い」 新改訳聖書

 「神を見舞う」

重い病気の人を見舞うのはつらい。しかし、イエスのたとえによれば、それは神に会いに行くことである。

病人を訪ねるのは、「わたしが病気をしたとき、わたしを見舞ってくれた」のと同じだとイエスはいわれるからである。

しかし、それは「たとえ」ではなく、実際に私たちは、病院で神と会うことになる。

慰められ、いやされる必要があるのは私自身だ。

(†心のデボーション01640)

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