心のデボーション163

デボーション1
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† 心のデボーション 01621

「ヱホバかくいひたまふ汝ら途に立て見古き徑に就て何か善道なるを尋ねて其途に行めさらば汝らの靈魂安を得ん然ど彼らこたへて我儕はそれに行まじといふ」 エレミヤ6:16 明治元訳聖書

「幸いの道はどこにあるかを尋ね、それを歩んで、あなたのいこいを見いだせ」 新改訳聖書

 「安らぎ」

男性がほっとするのは、森の静けさに身を沈めた時であろう。そして、女性が安らぐのは親密な関わりのもてる相手を見い出したときではないだろうか。男性は内に引きこもり、女性は一体感を求める。

深い関係とは、お互いが心の安らぐ瞬間の違いを理解し、それを大切にする間柄のことである。二人が一緒にほっとしたいなら、自分を大切にし、そして、その安らぎが相手によるものであることを認めることである。

(†心のデボーション01621)

† 心のデボーション 01622

「河ありそのながれは神のみやこをよろこばしめ至上者のすみたまふ聖所をよろこばしむ」 詩篇46:4 明治元訳聖書

「一つの川がある。その流れは神の都を喜ばせ、いと高き者の聖なるすまいを喜ばせる」 口語訳聖書

 「恵みの流れ」

だれの人生にも、その基底に流れがある。ときに清流であり、ときに激しく流れる。流れを無理に変えようとしたり、せき止めたりしてはいけない。流れるままにしておくこと。どう流れるかは流れそのものが知っている。急流だけの流れも、せせらぎだけの流れもない。

(†心のデボーション01622)

† 心のデボーション 01623

「なんぢ我審判を廢んとするや 我を非として自身を是とせんとするや」 ヨブ40:8 明治元訳聖書

「あなたはなお、わたしに責任を負わそうとするのか。あなたはわたしを非とし、自分を是としようとするのか」 口語訳聖書

 「責任」

責任をどこまで負うかは難しい問題である。責任を負うことの許されない失敗もあるからだ。たとえ責任を負ったとしても払いきれないものがなお残される。しかし、その経験が人を育てることは稀ではない。

(†心のデボーション01623)

† 心のデボーション 01624

「萬の物のをはり近づけり、然れば汝ら心を慥にし、愼みて祈せよ」 Ⅰペテロ4:7 大正文語訳聖書

「祈りのために、心を整え身を慎みなさい」 新改訳聖書

 「身を慎む」

私たちは祈りのたびに、心を整え、身を慎む。

「心を整え」は落ち着いた、節度のある感覚を保つ」ことである。

「身を慎む」は「酔いつぶれていない」という意味である。

酒を飲むなという意味ではなく、目を覚まして自分自身の言動に注意をおこたらないことである。祈りは心を整えるだけでなく、身体への気づきをおこす。身体も又、主を喜ぶ。

(†心のデボーション01624)

† 心のデボーション 01625

「また恥づべき言・愚なる話・戯言を言ふな、これ宜しからぬ事なり、寧ろ感謝せよ」 エペソ5:4 大正文語訳聖書

「下品な冗談を避けなさい」 新改訳聖書

 「下品な冗談」

面白くもない冗談を聞かされるのは嫌なものだ。まして、それを繰り返されると腹も立つ。

ここに読む「下品な冗談」とは「その場にそぐわない気のきかせかた」のことである。本人はそれなりに「気をきかせた話」と思っているが、その場で言うべきことではない「下品な冗談」である。

通じない冗談がいけないのであって、時と場を心得た「気のきく冗談」は私も嫌いではない。

(†心のデボーション01625)

† 心のデボーション 01626

「されど我らの國籍は天に在り、我らは主イエス・キリストの救主として其の處より來りたまふを待つ」 ピリピ3:20 大正文語訳聖書

「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています」 新共同訳聖書

 「神の国」

「神の國の何時きたるべきかをパリサイ人に問はれし時、イエス答へて言ひたまふ『神の國は見ゆべき状にて來らず。また「視よ、此處に在り」「彼處に在り」と人々言はざるべし。視よ、神の國は汝らの中に在るなり』 」ルカ17:20~21

神の国は見えるかたちに来るのではなく、「ここにある、あそこにある」というのでもなく、「あなたがたの中(ἐντὸς ὑμῶν ἐστιν 内部・内側)にある」。
(†心のデボーション01626)

† 心のデボーション 01627

「汝殺すなかれ」 出エジプト20:13 明治元訳聖書

「殺してはならない」 新共同訳聖書

 「禁じられた遊び」

フランソワ・ボワイエの原作小説「禁じられた遊び」はナチの爆撃で両親を失い、死んだ子犬を抱える5歳の少女ポーレットと農家の末っ子ミッシェルが始める水車小屋での秘密の墓場遊びが描かれる。死んだものを埋め、墓に十字架をたてるために教会の墓場から沢山の十字架を盗み、彼らの墓に立てることに熱中する。

死の意味も知らず、葬りの遊びに熱中する子どもの姿に戦争を繰り返す大人が重なる。

「殺さないで、殺さないで、殺しちゃいや!」と泣きながら訴えるポーレットだけが胸に残る。

(†心のデボーション01627)

† 心のデボーション 01628

「われはシャロンの野花 谷の百合花なり」 雅歌2:1 明治元訳聖書

「私はシャロンのサフラン、谷のゆりの花」 新改訳聖書

 「グリーンハンド」

ヒイラギナンテンの芽が出た。これは散歩の道に小さな公園があって、紫色の実をつけていたのを一株妻がいただいて帰ったものだ。散歩しながら、めずらしい花と出会ったら「一株わけてください」と声をかけてみることをおすすめする。ことわられることはめったにない。植物を育てるのが上手な人のことをグリーンハンドという。グリーンハンドの人は、植物を育てながら心に何かを育てているようでもある。

(†心のデボーション01628)

† 心のデボーション 01629

「わが不義はおほいなり ヱホバよ名のために之をゆるしたまへ」 詩篇25:11 明治元訳聖書

「主よ、み名のために、わたしの罪をおゆるしください。わたしの罪は大きいのです」 口語訳聖書

 「青の洞門」

菊池寛の小説「恩讐の彼方に」には「鎖渡し」と呼ばれる難所が出てくる。樋田から青へ行くには絶壁の中腹を一本の鎖を伝わって行かなければならない難所で、一年に三、四人、多いときは十人もの命が失われた。旅の僧禅海はひとり鑿を手に岩をけずって、青にぬける道を掘り始める。そんな禅海に石を投げる子どももいたが、やがて村人もすすんで協力する。掘り始めて27年後にかつて人を殺めた禅海を父の仇とねらう実之助が現れるが洞門が完成するまであと3年をまってもらいたいという願いを聞いて、待つ間に実之助も鑿をふるうようになり、ついに30年をかけて「青の洞門」が完成する。その時には実之助の仇討の思いも消えている。

罪をゆるされるには「鎖渡し」の難所を鑿一本で掘りぬくことができなければならない。

(†心のデボーション01629)

† 心のデボーション 01630

「すべての操守べき物よりもまさりて汝の心を守れ そは生命の流これより出ればなり」 箴言4:23 明治元訳聖書

「油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである」 口語訳聖書

 「油断することなく」

「油断」の語源は「北本涅槃経」二二の「王、一臣に勅す、一油鉢を持ち、由中を経て過ぎよ、傾覆することなかれ、もし一滴を棄せば、まさに汝の命を断つべし」からという。

王が家臣に油の入った鉢をもって由中(繁華街)を行け、こぼしてはならない。もし一滴をこぼしたらおまえの命を断つ、と命じたという。油の入った鉢を一滴ももらさず雑踏を抜けていく心配りを怠るのが「油断」である。

「油断することなく、あなたの心を守れ」(口語訳聖書)は「力の限り、見張って」(新改訳聖書)である。

(†心のデボーション01630)

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