† 心のデボーション 01611
「我が子よこれらを汝の眼より離す勿れ 聰明と謹愼とを守れ」 箴言3:21 明治元訳聖書
「わが子よ。すぐれた知性と思慮とをよく見張り、これらを見失うな」 新改訳聖書
「マインドコントロール」
狭い世界に人を閉じ込め、情報を極端に制限し、一方的な論理を繰り返して聞かせることで人間の心を一定の方向に導くことがマインドコントロールである。
マインドコントロールされると、それほど困った状況ではないのに自分に不利な情報だけを集めて、自分で自分を追い詰めてしまうこともある。物事にはさまざまな側面があると知る「知性と思慮」があれば、心配はない。
(†心のデボーション01611)
† 心のデボーション 01612
「かくしてその第五十年を聖め國中の一切の人民に自由を宣しめすべしこの年はなんぢらにはヨベルの年なりなんぢらおのおのその產業に歸りおのおのその家にかへるべし」 レビ25:10 明治元訳聖書
「あなたがたは第五十年目を聖別し、国中のすべての住民に解放を宣言する。これはあなたがたのヨベルの年である。あなたがたはそれぞれ自分の所有地に帰り、それぞれ自分の家族のもとに帰らなければならない」 新改訳聖書
「自由の鐘」
「自由の鐘」はペンシルベニア議事堂の尖塔に吊り下げられたもので、鐘にはレビ記から「PROCLAIM LIBERTY THROUGHOUT ALL THE LAND UNTO ALL THE INHABITANTS THEREOF 國中の一切の人民に自由を宣しめすべし」と記され、アメリカ合衆国の独立のシンボルとなっている。
レビ記は
続いて、「これはあなたがたのヨベルの年である。あなたがたはそれぞれ自分の所有地に帰り、それぞれ自分の家族のもとに帰らなければならない」と告げている。
(†心のデボーション01612)
† 心のデボーション 01613
「汝われらと偕に籤をひけ 我儕とともに一の金嚢を持べしと云とも」 箴言1:14 明治元訳聖書
「われわれと一緒に、お前もお前のくじを引け。われわれはみなで、一つの財布を持とう」 フランシスコ会訳聖書
「汝の新田を耕せ」
略奪者は他人の所有を窺がい、それによって懐を肥やそうとする。効率のよい方法で得たものが人を富ますことはない。
額に汗して耕して得たものをもって足れりとする。
「汝等の新田を耕せ」 エレミヤ4:3 明治元訳聖書
(†心のデボーション01613)
† 心のデボーション 01614
「天が下の萬の事には期あり 萬の事務には時あり」 伝道3:1 明治元訳聖書
「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある」 口語訳聖書
「創造の時」
河合隼雄さんが紹介するアメリカ・インディアンの伝説には二人の創造主が登場する。一人はコラワシで一人は名前がない。コラワシが人間やら動物やら、いろいろ創るがみな失敗する。するともう一人の名のない男が3日間煙草を吸っていると家が出現し、女が出てきて男と結婚し子どもがうまれる。(河合隼雄 「出会いの不思議」より) 河合隼雄さんは「正しいことをしようとやっきになって努力しすぎると大切なものが失われる」という。
コラワシが間違っているのでも、名のない男が賢いのでもなく、二人は創造のそれぞれの側面なのかもしれない。
(†心のデボーション01614)
† 心のデボーション 01615
「而して彼等をして常に民を鞫かしめ大事は凡てこれを汝に陳しめ小事は凡て彼等みづからこれを判かしむべし斯汝の身の煩瑣を省き彼らをして汝とその任を共にせしめよ」 出エジプト18:2 明治元訳聖書
「あなたの重荷を軽くしなさい」 新改訳聖書
「助言を受ける勇気」
モーセはどんな小さな問題にも誠実にかかわる人だった。そのためモーセの前には常に話しを聞いてもらう順番を待つ人々の長い列ができた。
姑イテロはこれを見て「あなたのしていることはよくない」と批判し、「あなたの重荷を軽くしなさい」と助言する。
過度の誠実さは、自分も周囲の人々をも疲れさせる。モーセは他者の「助言」を誠実に聞く勇気ある人だった。
(†心のデボーション01615)
† 心のデボーション 01616
「されど我らの國籍は天に在り、我らは主イエス・キリストの救主として其の處より來りたまふを待つ」 ピリピ3:20 大正文語訳聖書
「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています」 新共同訳聖書
「国籍日本、転居先天国」
墓石に「わたしたちの国籍は天にある」と刻まれているのを見かける。ピリピ3:20の聖句で、クリスチャンであることがわかる。いつの頃からの習慣なのか知らぬが、日本の墓地でそれを見ると、クリスチャンは日本人を止めたかのような印象があり、小骨の喉に刺さるような違和感がある。
「国籍日本、転居先天国」なのだが、これでは墓碑にするような言葉とも思えない。せめて、「されど我らの國籍は天に在り、我らは主イエス・キリストの救主として其の處より來りたまふを待つ」とピリピ3:20全文を刻みたいところだが、それでは長すぎてキリスト教葬儀屋が嫌がるだろう。
墓石には葬儀屋の用意したお定まりの文句ではなく、故人の愛した聖句をそれぞれに刻むがよいのではないだろうか。
(†心のデボーション01616)
† 心のデボーション 01617
「げに信仰と希望と愛と此の三つの者は限りなく存らん、而して其のうち最も大なるは愛なり」 Ⅰコリント 13:13 大正文語訳聖書
「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」 新共同訳聖書
「時の重み」
時の重みとは生と死と愛に堪えた人生の重みであるという。どれだけの生と死と愛に堪えることができたかが人生の価値を決める。
「生と死と愛」はばらばらに経験されるのではなく、この三つは固く結ばれている。
(†心のデボーション01617)
† 心のデボーション 01618
「すべての操守べき物よりもまさりて汝の心を守れ そは生命の流これより出ればなり」 箴言4:23 明治元訳聖書
「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく」 新改訳聖書
「とりあえず」
「とりあえず」というのは便利な言葉である。曖昧にしておきたかったり、確信のない時、「とりあえず、それでいきましょう」と言えばたいていのことはうまく収まる。不思議な言葉である。
しかし、何事も「とりあえず」ですませるわけにもいかない。今ここで自分を語らなければならない時に、何が伝えられたのかわからなくしてしまう恐れもある。日常の中に、自分は自分という「いのちの泉」を大切にしたい。
(†心のデボーション01618)
† 心のデボーション 01619
「時にヨブの三人の友この一切の災禍の彼に臨めるを聞き各々おのれの處よりして來れり 即ちテマン人エリパズ、シユヒ人ビルダデおよびマアナ人ゾパル是なり 彼らヨブを弔りかつ慰めんとて互に約してきたりしが」 ヨブ2:11 明治元訳聖書
「ヨブ 2:11 時に、ヨブの三人の友がこのすべての災のヨブに臨んだのを聞いて、めいめい自分の所から尋ねて来た。すなわちテマンびとエリパズ、シュヒびとビルダデ、ナアマびとゾパルである。彼らはヨブをいたわり、慰めようとして、たがいに約束してきたのである」 口語訳聖書
「ヨブの友」
ヨブが苦難に陥ると慰めようと3人の友がやってきた。
しかし、3人の「慰め」はヨブを苛立たせるばかりだった。
大勢の仲間のある人でも、「友」と言える仲間は少ない。
「友と言える人」が少ないのを嘆くまえに、まず、「友とは何か」を互いに問う必要があるかもしれない。
(†心のデボーション01619)
† 心のデボーション 01620
「わがうちに憂慮のみつる時 なんぢの安慰わがたましひを喜ばせたまふ」 詩篇94:19 明治元訳聖書
「わたしの胸が思い煩いに占められたとき/あなたの慰めが/わたしの魂の楽しみとなりました」 新共同訳聖書
「にもかかわらず笑う」
ドイツ語に「にもかかわらず笑う auch wenn ich lache」という表現があるという。
フランクルはアウシュビッツで、一日一つのユーモアを考えて交換しあう仲間をもっていた。平穏な生活の中でもそれが出来れば素晴らしい。
(†心のデボーション01620)
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