† 心のデボーション 01601
「汝らに患難を加ふる者に患難をもて報い、患難を受くる汝らに、我らと共に安息をもて報い給ふは、神の正しき事なり」 Ⅱテサロニケ1:7 大正文語訳聖書
「報いとして安息を与えてくださる」 新改訳聖書
「ゆるめる」
堅琴は使わないときは弦をゆるめておく。そうしないと、弦がのびて、よい音を響かせることができなくなる。「安息」という言葉は「ゆるめる」という意味です。
よい音を響かせるためにも、時々自分を「ゆるめ」てやる必要がある。「苦しみ」の時に最高に響くために、普段は「ゆるめ」て、だらしなく、音も出ないのがよいということだろうか。
(†心のデボーション01601)
† 心のデボーション 01602
「なんぢの友と汝の父の友とを棄るなかれ なんぢ患難にあふ日に兄弟の家にいることなかれ 親しき隣は疏き兄弟に愈れり」 箴言27:10 明治元訳聖書
「あなたの友、あなたの父の友を捨てるな、あなたが悩みにあう日には兄弟の家に行くな、近い隣り人は遠くにいる兄弟にまさる」 口語訳聖書
「仲のよい二人」
河合隼雄さんは著書の中で次の「アメリカ先住民のアコマヴィの神話」を紹介している。
何もないところに雲が出てきて固まってコヨーテになり、霧が凝縮してギンギツネとなる。
彼らは船を作り、長い間そこに住んでいたが、少し退屈してくる。
ギンギツネのすすめでコヨーテが眠っている間に、ギンギツネは熱心に仕事をして、陸地を作り、そこに木や岩や茂みなどを作り上げる。船が岸に着くとギンギツネはコヨーテを起こす。コヨーテはびっくりするが陸に上がり、そこでギンギツネと一緒に果物をいっぱい食べる。そして、そこで彼らは家を作り住むことになる。(河合隼雄「出会いの不思議」より)
働き者のギンギツネと眠ってばかりいるコヨーテはもともと雲と霧が凝縮したもので出所は同じ。一人の人間のなかにギンギツネとコヨーテが同居している。コヨーテは何もしないようで、実はギンギツネのよき相棒で、二人はとても仲がよく、住み心地の良い彼らの家をつくる。
(†心のデボーション01602)
† 心のデボーション 01603
「汝われらと偕に籤をひけ 我儕とともに一の金嚢を持べしと云とも」 箴言1:14 明治元訳聖書
「われわれと一緒に、お前もお前のくじを引け。われわれはみなで、一つの財布を持とう」 フランシスコ会訳聖書
「共に栄えよう」
悪が仲間を誘いこむときの常套手段は「共に栄えよう」である。悪の利益を「一つの財布」として分かち合おうというのである。だが、それが平等であったためしはない。
(†心のデボーション01603)
† 心のデボーション 01604
「汝の父母を樂しませ 汝を生る者を喜ばせよ」 箴言23:25 明治文語訳聖書
「あなたの父母を楽しませ、あなたを産んだ母を喜ばせよ」 口語訳聖書
「愛着」
誕生したばかりの新生児はすぐに母親にしがみつく。この時、新生児と母親の間に愛着の関係が形成される。新生児にしがみつかれて母親も至福の時を過ごす。
この母と子の愛着関係が、その後、子どもが外の世界と基本的信頼関係を築くための礎になる。
愛された子どもは人を信じることができる。
(†心のデボーション01604)
† 心のデボーション 01605
「鵜と刺猬とそこを己がものとなし鷺と鴉とそこにすまん ヱホバそのうへに亂をおこす繩をはり空虛をきたらする錘をさげ給ふべし」 イザヤ34:11 明治元訳聖書
「主はその上に虚空の測りなわを張り、虚空のおもりを下げられる」 新改訳聖書
「虚空の測りなわ」
イザヤは、終末の時代に神が「虚空の測りなわ」を張り、「虚空のおもり」を下げられると告げる。それらは、私たちの心の虚空のひろさをはかり、重さをはかるのだろうか。それとも、ものごとの意味が失われ、正しく測ることが空しいというのだろうか。
測りなわを失った心はむなしさの空間をひろげ、狂ったおもりはいのちの重さをは正確にはかることができない。
(†心のデボーション01605)
† 心のデボーション 01606
「なんぢら悔改めよ、天國は近づきたり」 マタイ3:2 大正文語訳聖書
「『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言った」 新共同訳聖書
「天国」
天国は死後の世界ではない。「今まさにここにあり!」として受け取る神の御支配である。我等の希望は「あの世」にではなく「この世」にある。やがて現われるのではなく、今、現に見えている。
多くの英訳は「Heaven is at hand」と訳す。「天手元にあり」。
(†心のデボーション01606)
† 心のデボーション 01607
「朋友を交付して掠奪に遭しむる者は其子等の目潰るべし」 ヨブ17:5 明治元訳聖書
「分け前を得るために友の告げ口をする者、その子らの目は衰え果てる」 新改訳聖書
「人を見るには」
友には気前の良い話をしながら、その子らは衰え果てることがあってよいだろうか? 彼の「告げ口」は調子がよいだけ話で、内には毒があるに違いない。
人を見るには子らを見よ。
(†心のデボーション01607)
† 心のデボーション 01608
「わが妹わが新婦よ なんぢの愛は樂しきかな なんぢの愛は酒よりも遙にすぐれ なんぢの香膏の馨は一切の香物よりもすぐれたり」 雅歌4:10 明治元訳聖書
「あなたの愛は、ぶどう酒よりもはるかにまさり、あなたの香油の香りは、すべての香料にもまさっている」新改訳聖書
「固有の匂い」
人は恋をすると匂いに敏感になるようだ。愛する人の匂いに酔うのである。人にはそれぞれ、その人だけの匂いがある。固有の匂いを感じさせない人というのは、愛を見失っているのかもしれない。
自分から嫌な匂いが出ているという悩みは、匂いに敏感なのではなく自分の匂いを喪失しているのである。「嫌な匂い」とは、自分が嫌な人と思われているのではないかという心の迷いなのだ。愛を見つけることができれば匂いにまつわる悩みは解決する。
(†心のデボーション01608)
† 心のデボーション 01609
「ヱホバよ朝になんぢわが聲をききたまはん 我あしたになんぢの爲にそなへして俟望むべし」 詩篇5:3 明治元訳聖
「主よ。朝明けに、私の声を聞いてください。朝明けに、私はあなたのために備えをし、見張りをいたします」 新改訳聖書
「朝の3時間」
メイ・サートンは「朝の3時間の仕事、それだけは決してたがえないようにしている。それは神聖な時間」と言う。そのために「さまざまのことで気持ちがかき乱されないうちに、原初の力そのものを保つことのできる3時間という枠を創る」のだという。(メイ・サートン 「わたしの愛する孤独」より)
神は朝早く人に語り掛けられる。朝は創造の力の働くときである。
(†心のデボーション01609)
† 心のデボーション 01610
「王の心はヱホバの手の中にありて恰かも水の流れのごとし 彼その聖旨のままに之を導きたまふ」 箴言21:1 明治元訳聖書
「王の心は、主の手のうちにあって、水の流れのようだ、主はみこころのままにこれを導かれる」 口語訳聖書
「付木(つけぎ)」
昔の人は客のちょっとしたお持たせにお返しとして「付木(つけぎ)」などを常備していた。
「付木(つけぎ)」は曲げ物などに使う長方形の経木の先に硫黄をつけたもので、細く割って火をつけるのに使う。マッチが普及するまでの生活必需品であった。付木を売り歩く付木屋もいた。
ちょっとしたお返しというものが、ほどよい人間関係をなめらかにする。
(†心のデボーション01610)
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