心のデボーション160

デボーション1
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† 心のデボーション 01591

「これ主イエスを甦へらせ給ひし者の我等をもイエスと共に甦へらせ、汝らと共に立たしめ給ふことを我ら知ればなり」 Ⅱコリント4:14 大正文語訳聖書

「主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ」 新改訳聖書

 「ゴリラのココ」

手話で言語学習をしているココという名前のゴリラに「お前、死んだらどうなる」と聞いてみる。するとココは「苦労がない」「穴」「さよなら」という三つのメッセージを手話で伝えてきたという。

ココにとって死は苦労から解放されて、暗い穴にさよならすることなのだろうか。

ゴリラのココから手話で、「お前、死んだらどうなる」と聞かれたら、何と答えようか。

(†心のデボーション01591)

† 心のデボーション 01592

「なんぢら悔改めよ、天國は近づきたり」 マタイ3:2 大正文語訳聖書

「『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言った」 新共同訳聖書

「一回だけ、何度でも」
何度悔い改めたらよいのだろうか?
「一回だけ、何度でも」
何度悔い改めたことだろうか?
「一回だけ、何度でも」

(†心のデボーション01592)

† 心のデボーション 01593

「われら各樣のたふとき財貨をえ 奪ひ取たる物をもて我儕の家に盈さん」 箴言1:13 明治元訳聖書

「さまざまな宝物を見つけ出し、分捕り品でわれわれの家を満たそう」 フランシスコ会訳聖書

 「朝のうちに種をまけ」

略奪によって富める者になることにいかほどの喜びがあろうか?

むしろ、貧しくも手ずからの働きの実を喜び、求むる者を拒まない者でありたい。

「朝のうちに種をまけ、夕まで手を休めてはならない」 伝道11:6 口語訳聖書

「あなたの手に善を行う力があるとき、求める者に、それを拒むな」 箴言3:27 新改訳聖書

(†心のデボーション01593)

† 心のデボーション 01594

「ヤコブその衣を裂き麻布を腰にまとひ久くその子のためになげけり」 創世記37:34 明治元訳聖書

「幾日もの間、その子のために泣き悲しんだ」 新改訳聖書

 「さかさわかれ」

ヤコブは息子ヨセフが獣にかみ裂かれたと思い、幾日もの間、泣き悲しむ。息子、娘たちが慰めたが、ヤコブは「慰めを拒む」。子どもに先立たれるほどつらいことはない。

その悲しみを「逆思(さかさおもい)」といい、「逆別(さかさわかれ)」と呼ぶ。「もう、その子を見られない」という思いが胸を締めつける。しかし、別れは逆さですが再会の希望はある。

先立った子にふさわしい親として、その時を迎えてほしいのである。

(†心のデボーション01594)

† 心のデボーション 01595

「主ヱホバよ汝は汝の大なる事と汝の強き手を僕に見すことを始めたまへり天にても地にても何の神か能なんぢの如き事業を爲し汝のごとき能力を有んや」 申命記3:24 明治元訳聖書

「わが主なる神よ、あなたは僕であるわたしにあなたの大いなること、力強い働きを示し始められました。あなたのように力ある業をなしうる神が、この天と地のどこにありましょうか」 新共同訳聖書

 「無神論者と有神論者」

河合隼雄さんが面白いジョークを紹介している。

旧ソ連の宇宙飛行士ガカーリンが人類で最初に地球の外に出て帰ってきた。当時の首相フルシチョフが「これは二人だけの秘密だが、宇宙の外に神はいたのか」と訊く。「はい、おられました」と応えると「そうだろう、俺も前からそう思っていた。だが、だまっていろ」といった。次にガカーリンはローマ法皇の歓迎パーティに招かれた。「地球の外にでて神を見たのか」と訊ねる。「いいえ、神はおられませんでした」「そうだろう。俺もそう思っていた。しかし、ここでは黙っていてくれ」といったという。(河合隼雄 「出会いの不思議」)

これは宇宙飛行士の間で流行ったジョークだそうである。

唯物論者も、神は要るらしいと思っているし、有神論者も、神はいないのではないかと思っている。両者はどこか似ている。   

(†心のデボーション01595)

† 心のデボーション 01596

「御言を教へらるる人は、教ふる人と凡ての善き物を共にせよ」 ガラテヤ6:6 大正文語訳聖書

「すべての良いものを分け合いなさい」 新改訳聖書

 「良きもの」

よい人というのは、相手の「よさ」を見つけることの上手な人のことである。自分の「よさ」を知りたいなら、相手の「よさ」を見つけることだ。

韓国では「行くことばが美しければ、返ることばも美しい」というそうである。相手の「よさ」を告げると、自分の「よさ」が返ってくる。相手の「よさ」はよくわかるのに、自分の「よさ」がわからないという人は、それが、その人の「よさ」かもしれない。

(†心のデボーション01596)

† 心のデボーション 01597

「もろもろの島よ我にきけ 遠きところのもろもろの民よ耳をかたむけよ 我うまれいづるよりヱホバ我を召し われ母の胎をいづるよりヱホバわが名をかたりつげたまへり」 イザヤ49:1 明治元訳聖書

「島々よ。私に聞け。遠い国々の民よ。耳を傾けよ。主は、生まれる前から私を召し、母の胎内にいる時から私の名を呼ばれた」 新改訳聖書

 「人生の物語」

人は生きていくために人生についての「物語」を必要とする。物語によって困難なことがあっても乗り越えることができる。

イザヤは母の胎にいるときから、自分の名を呼ぶ神と語り交わしていたという。それは預言者イザヤの生涯の「物語」だったのだろうか。

「母の胎にあるときから/あなたに依りすがって来ました。あなたは母の腹から/わたしを取り上げてくださいました。わたしは常にあなたを賛美します」 詩篇71:6 新共同訳聖書

(†心のデボーション01597)

† 心のデボーション 01598

「われ汝らに告ぐ、不義の富をもて、己がために友をつくれ。さらば富の失する時、その友なんぢらを永遠の住居に迎へん」 ルカ16:9 大正文語訳聖書

「そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです」 新改訳聖書

 「不正の富」

「Accipere quam facere injuriam praestat. 不正を行うより不正を受けるほうがよい」 (マルクス・トゥッリウス・キケロ の言葉)

不正で得た富は身につかない。しかし、不正を克服することで得た富は世界を潤す。

ルカ 16:9は「不正の富で、自分のために友をつくりなさい」というが、不正の富でつくった友が、富を使いつくしたときに役にたつだろうか?

そうではなく、不正の富を得たら、それを友のために使え、そうすれば永遠の国にいったとき、その友があなたを自分の住まいにむかえてくれるだろう」というのである。

(†心のデボーション01598)

† 心のデボーション 01599

「幼子といへどもその動作によりておのれの根性の清きか或は正しきかをあらはす」 箴言20:11 明治元訳聖書

「幼な子でさえも、その行いによって自らを示し、そのすることの清いか正しいかを現す」 口語訳聖書

 「形づくるもの」

「情報 inform」の語源は、「 in つくる + form 形」で「形をつくりだす」の意味である。

情報は何らかの「形」を作り出す。しかし偽情報がつくりだす「形」というものもある。「形」からではその情報が正しいか否かはわからない。

聖書は正しいか否かはその行いによってその「形」が現れると教えている。

(†心のデボーション01599)

† 心のデボーション 01600

「王答ていひけるは活子を彼に與へよ必ず殺すなかれ彼は其母なるなりと」 Ⅰ列王3:27 明治元訳聖書

「彼女がその子の母親なのだ」 新改訳聖書

 「ソロモンの知恵」

一人の子をめぐって二人の女が「わが子」だと争った。

そこでソロモンは剣でその子を二つに断ち切り、半分づつを二人の女に与えよと命じます。すると女のひとりが「子どもを殺さないで、あの女に与えてください」と願う。ソロモンは、この女こそ本当の母親だと認める。

母親はいつか別の女とわが子を争う時がくる。相手に渡さなければ、子どもは二つに断ち切られるのである。

(†心のデボーション01600)

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