心のデボーション159

デボーション1
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† 心のデボーション 01581

「王すなはち婦に何事なるやと言ば答へて言ふ此婦人我にむかひ汝の子を與へよ我儕今日これを食ひて明日わが子を食ふべしと言り」 Ⅱ列王記6:28 明治元訳聖書

「あなたの子どもをよこしなさい。私たちはきょう、それを食べて、あすは私の子どもを食べましょう」 新改訳聖書

 「アビューズ」

アビューズ abuse「虐待」は、アブ・ユーズ「普通でない使い方」の意味である。子どもを普通でない欲望の対象にする。聖書には、ひどい飢饉があって、自分の子どもを煮て食べたという記録がある。しかし、現代では飢饉でなくても、自分の欲望のために、子どもの心と身体を食べる親がいる。その普通でない光景を目撃したら、すぐに行動をおこして止めなければならない。しかし、この非人間的な部分が自分にはないと言い切れる人はいるのだろうか。

(†心のデボーション01581)

† 心のデボーション 01582

「我わが歩履の數を彼に述ん 君王たる者のごとくして彼に近づかん」 ヨブ31:37 明治元訳聖書

「わたしの歩みの一歩一歩を彼に示し/君主のように彼と対決しよう」 新共同訳聖書

 「対決」

ヨブは彼の不幸をあざ笑う者たちに向かって、「わたしの歩みの一歩一歩を彼に示し、君主のように彼と対決しよう」と言う。

河合隼雄さんが指摘するように、「対決」を好まず、「表面的な平穏を好む傾向が強い」日本人には、自身の不幸に目を閉ざすことなく、歩みの一歩一歩を彼らに示し、君主のように決然と彼らに「対決しよう」と言い切るヨブの姿勢は理解しにくいかもしれない。

河合隼雄さんは「深い関係を結ぶ過程には、怒りや悲しみ、苦しみなどの経験が必要である」と言っている。(河合隼雄 『出会いの不思議』)

(†心のデボーション01582)

† 心のデボーション 01583

「なんぢら悔改めよ、天國は近づきたり」 マタイ3:2 大正文語訳聖書

「『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言った」 新共同訳聖書

 「悔い改め」

「悔い改め」は人生の根本(生き方考え方の根本)を切り変えること。刻々に生き方と考え方の「向きを変える」ことを学ばない限り、私は生きることができない。

(†心のデボーション01583)

† 心のデボーション 01584

「誠にまことに汝らに告ぐ、一粒の麥、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん、もし死なば、多くの果を結ぶべし」 ヨハネ12:24 大正文語訳聖書

「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです」 新改訳聖書

 「一粒の麦」

地に落ちた一粒の麦は、死ななければ一粒のままだが、死ねば多くの実を結ぶ。

ところで、死んだ種は腐るだけで、発芽するのは生きている種だけである。とすれば、ここで語られているのは「死んだ種」ではなく「生きている種」のことである。

「生きている種」だからこそ、死んで「麦」に生まれ変わる。

実を結ぶ種は自分に死にながら麦として生きる。他方、自分に生きながら麦として生きるのを拒む種もあるということだろうか。

(†心のデボーション01584)

† 心のデボーション 01585

「われら各樣のたふとき財貨をえ 奪ひ取たる物をもて我儕の家に盈さん」 箴言1:13 明治元訳聖書

「さまざまな宝物を見つけ出し、分捕り品でわれわれの家を満たそう」 フランシスコ会訳聖書

 「略奪者の家」

略奪者の家は罪なき者からの「分捕り物」で「充満」している。必要だからではない、「充満していること」が大切なのだ。しかし、彼らは空間を分捕り物で埋め尽くしても、もう充分だとは言わない。

「蛭に二人の女あり 與ヘよ與へよと呼はる 飽ことを知ざるもの三あり 否な四あり皆たれりといはず」 箴言30:15 明治元訳聖書

(†心のデボーション01585)

† 心のデボーション 01586

「拙者の違逆はおのれを殺し 愚なる者の幸福はおのれを滅さん」 箴言1:32 明治元訳聖書

「愚かな者の安心は自分を滅ぼす」 新改訳聖書

 「愚かな者の安心」

「安心だから」という理由でものごとを決めない方がよい場合もある。人はなじんだものに安心する傾向があるからである。

そまつに扱われるのになじんできた人は、どこか心の冷たい人に近づこうとする傾向もある。酒乱の父親に育てられた娘は、しばしば、自分に迷惑をかける男と巡り会ってしまうのである。

なじんできたものに寄りそっていくのが「愚か者の安心」かもしれない。本当の安心はなじんでこなかったものの中にある。

(†心のデボーション01586)

† 心のデボーション 01587

「路をよぎり自己に關りなき爭擾にたづさはる者は狗の耳をとらふる者のごとし」 箴言26:17 明治元訳聖書

「自分に関係のない争いにたずさわる者は、通りすぎる犬の耳をとらえる者のようだ」 新改訳聖書

 「うなぎのように」

ドイツ語で aalglatt アール・グラット は「aal うなぎ + glatt つるつるした」から、「うなぎのようにぬるぬるした」、「つかみどころのない」ことで、「捕らえどころがない」とか「巧みにすり抜ける」などに用いられる。

だが、日本のウナギ職人の手にかかればいとも簡単に捕まってしまう。

この箴言は「自分に関係のない争い」だと見極めて手を出す者が、実は「通りすぎる犬の耳をとらえているのだ」と警告をする。

何事も物事を無難にすり抜ける生き方も、それが致命的な欠点になることもある。

(†心のデボーション01587)

† 心のデボーション 01588

「我は全し 然ども我はわが心を知ず 我生命を賤む」 ヨブ9:21 明治元訳聖書

「わたしは罪がない、しかしわたしは自分を知らない。わたしは自分の命をいとう」 口語訳聖書)

 「ヨブの叫び」

人は聖書にどう考えても納得することのできない事柄があるのではないだろうか? それが何かは人によって異なる。そうした疑問は簡単に納得せず、生涯抱えていけばよい。そのような疑問は信仰を失うというよりも、信仰を育てるからである。

ヨブは「わたしは罪がない」と叫び、そして「わたしは自分を知らない」と告白し、「わたしは自分の命をいとう」と呻く。

神はこのヨブに、どのように答えられたのだろうか?

(†心のデボーション01588)

† 心のデボーション 01589

「汝らの從順は凡ての人に聞えたれば、我なんぢらの爲に喜べり。而して我が欲する所は、汝らが善に智く、惡に疏からんことなり」 ロマ16:19 大正文語訳聖書

「私はあなたがたのことを喜んでいます」 新改訳聖書

 「飛べないカモ」

デッチョ池には、一羽のカモが暮らしている。何かの理由で飛べなくなって、池に一羽残されたカモなのだ。

春も過ぎ、夏の終わりに、見慣れぬカモが三羽デッチョ池にやってきた。飛べないカモは三羽めがけて、それはすごい勢いで泳ぎだした。あまりの真剣な姿に「ここは俺の池だ。出ていけ」と抗議に行ったのかと思った。しかし、そうではなく、飛べないカモは仲間に会えて、ただただ、嬉しかったのである。

(†心のデボーション01589)

† 心のデボーション 01590

「レアいふ我は幸なり女等我を幸なる者となさんと其名をアセルとなづけたり」 創世記30:13 明治元訳聖書

「そのときレアは、『なんと幸せなこと(アシェル)か。娘たちはわたしを幸せ者と言うにちがいない』と言って、その子をアシェルと名付けた」 新共同訳聖書

 「幸せ者」

ラテン語の諺に「Abyssus abyssum invocat. 地獄は地獄を呼ぶ」という。「一つの過失はもう一つの過失に結びつく」という意味だそうである。

「一つの嘘のためには沢山の嘘をつかなければならない」と同じだろうか。

だが、「幸せが幸せを呼ぶ」も覚えておこう。一つの小さな幸せがあれば人は生きていける。

(†心のデボーション01590)

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