† 心のデボーション 01571
「その頃バプテスマのヨハネ來り、ユダヤの荒野にて教を宣べて言ふ」マタイ3:1 大正文語訳聖書
「そのころ、バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った」 新改訳聖書
「宣教」
「宣教」の「宣」は「宀 やね」+「亘 せん」で、「亘 せん」は「二」+「日 (回)で「何回もぐるぐる回る」こと。そこから「宣」は天子の正室、宮殿をさし、「あまねく知らせる」の意味である。
「宣教」は、神のことばを伝えて「何回も、ぐるぐると巡る」ことである。
イエスを伝えるために、たった一人でイスラムの国に入った男がいた。その後、男からの消息が絶え、人々も男のことを忘れた。それから数年後、イスラムの国を旅行した人が、たまたま、路上で座り込んでいる一人の老人の脇で福音を語っている男を見たという。
(†心のデボーション01571)
† 心のデボーション 01572
「ヱホバもし人の途を喜ばば その人の敵をも之と和がしむべし」 箴言16:7 明治元訳聖書
「箴 主に喜ばれる道を歩む人を/主は敵と和解させてくださる。」 新共同訳聖書
「和解」
互いの意見が異なるとき、「和解」は耐え難い苦しみをともなう。相手が親しい人であればあるほど和解は難しい。
聖書の「和解」ということばは「同等のものと交換する」という意味を含んでいる。「敵意」を「好意」に入れ替えることが「和解」である。
神は私への「敵意」を「好意」に入れ替えられ、それによって神との和解がきたのである。
あらゆる「和解」は神から来る。
(†心のデボーション01572)
† 心のデボーション 01573
「今いまし、昔いまし、後きたり給ふ主なる全能の神いひ給ふ『我はアルパなり、オメガなり』」 黙示1:8 大正文語訳聖書
「わたしはアルファであり、オメガである」 新改訳聖書
「未完の自分」
単位をほとんどとっているのに、つまらないことから小さな試験を受け損ねて卒業を遅らせてしまう人も少なくない。一つを終わらせることは、同時に、新たな一つを始めることである。その一つが見つからなくて卒業できないのかもしれない。
はじめと終わりは神のものである。だから、未完の自分をこよなく愛せる。
(†心のデボーション01573)
† 心のデボーション 01574
「なんぢら念を同じうし、愛を同じうし、心を合せ、思ふことを一つにして、我が喜悦を充しめよ」 ピリピ2:2 大正文語訳聖書
「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください」 新共同訳聖書
「心を合わせ」
「心を合わせ」の英訳は being of one accord である。Accord は 「ac ~の方へ + cor 心」で「心が一つの方向に集まる」の意味である。
「友」とは「心が一つの方向に集まる」人のことである。
キリスト者とはキリストに向けて「心を一つに集めて」イエスの喜びを満たすひとのことである。
(†心のデボーション01574)
† 心のデボーション 01575
「斯して彼言けるは吾主人アブラハムの神ヱホバよ願くは今日我にその者を逢しめわが主人アブラハムに恩惠を施し給へ」 創世記24:12 明治元訳聖書
「彼は言った、「主人アブラハムの神、主よ、どうか、きょう、わたしにしあわせを授け、主人アブラハムに恵
みを施してください」 口語訳聖書
「神の取り計らい」
主人アブラハムの息子イサクにカナン人の嫁を探しに旅した僕は町の郊外にある井戸端で、水をくむ娘と出会う前に、神に「どうか、きょう、わたしにしあわせを授けてください」(口語訳聖書)と祈った。
新改訳聖書は「主よ。きょう、私のためにどうか取り計らってください」と訳す。
良き出会いは人の「しあわせ」である。それは「神の取り計らい」による。
僕はこの井戸の畔で、イサクの嫁になるリベカに出会った。
(†心のデボーション01575)
† 心のデボーション 01576
「灰にかへ冠をたまひてシオンの中のかなしむ者にあたへ 悲哀にかへて歡喜のあぶらを予へ うれひの心にかへて讃美の衣をかたへしめたまふなり かれらは義の樹 ヱホバの植たまふ者 その榮光をあらはす者ととなへられん」 イザヤ61:3 明治元訳聖書
「憂いの心の代わりに賛美の外套を」 新改訳聖書
「賛美の外套」
心に憂いがあれば、外に出ていくのもつらい。そんな日には「賛美」という「外套」で心をつつむ。
憂いは退けないで、抱いたまま、低い声で歌う。賛美ができないときは、耳をすませて聞く。やがて、それが歌になる。
最も深い憂いは賛美を失うことである。そうなると、どんな「外套」をつけても心は暖まらない。
(†心のデボーション01576)
† 心のデボーション 01577
「われら各樣のたふとき財貨をえ 奪ひ取たる物をもて我儕の家に盈さん」 箴言1:13 明治元訳聖書
「さまざまな宝物を見つけ出し、分捕り品でわれわれの家を満たそう」 フランシスコ会訳聖書
「略奪者の狙う財宝」
略奪者の狙う「財宝」は富める者にとどまらない。「みなしごのろばを連れ去り、やもめの牛を質草に取る」(ヨブ24:3 新共同訳聖書) 略奪者は弱き者のいのちを支える家畜を奪うこともためらわない。
(†心のデボーション01577)
† 心のデボーション 01578
「願くはわれを瞳のごとくにまもり汝のつばさの蔭にかくし」 詩篇17:8 明治元訳聖書
「私を、ひとみのように見守り、御翼の陰に私をかくまってください」 新改訳聖書
「御翼の陰」
安心してすごせる「居場所」が持てる人は幸いである。人は「帰っていく場所」があることで外の世界に行くことができる。
詩人は神によって自分を「ひとみのように見守られている」と感じ、「御翼の陰に私をかくまってください」と祈る。神は私に」「居場所」を与えてくださる。
聖歌347番「いかにおそるべき」
(†心のデボーション01578)
† 心のデボーション 01579
「わが兄弟はわが望を充さざること溪川のごとく 溪川の流のごとくに過さる 」 ヨブ6:16 明治元訳聖書
「私の兄弟たちは川のように裏切った」 新改訳聖書
「枯れ川」
砂漠の枯れ川をワディと呼ぶ。砂の下に固い地層があり、雨水は地表に集まって鉄砲水のように流れる。しかし、雨があがれば、水はたちまち干上がって川底が現われワディとなる。
「川のように裏切る」は、炎天に乾いて、一口の水を求めて川辺に来たのに、あれほどの流れが忽然と姿を消してしまったところから来ている。砂漠に流れる河よりも、いつでも一口の水を差し出す泉でありたい。
(†心のデボーション01579)
† 心のデボーション 01580
「哲者の心は知識をえ 智慧ある者の耳は知識を求む」 箴言18:15 明治元訳聖書
「聡明な心は知識を獲得する。知恵ある耳は知識を追求する」 新共同訳聖書
「知恵ある耳」
「聡明な心」は「悟りの心」である。「知恵ある耳」をもち知識を求め、知識を獲得する。
「知識を獲得する」の英語 acquires は「ac 加える + quire 探し求める」で「探し求めた後に習得する」の意味である。
「知恵ある耳」は熱心に探し求め、求めるものを習得する。
(†心のデボーション01580)
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