心のデボーション157

デボーション1
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† 心のデボーション 01561

「その頃バプテスマのヨハネ來り、ユダヤの荒野にて教を宣べて言ふ」マタイ3:1 大正文語訳聖書

「そのころ、バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った」 新改訳聖書

 「神の僕」

「そのころ(それらの日に)洗礼者ヨハネが現われ」は、ヨハネが人々の「ところ」、人々の「時」に「到着した、届いた」との意味である。

神の遣わされた僕は、現代の私の「ところ」と「時」に「到着し」届く。

(†心のデボーション01561)

† 心のデボーション 01562

「イエス坐して十二弟子を呼び、之に言ひたまふ『人もし頭たらんと思はば、凡ての人の後となり、凡ての人の役者(えきしゃ)となるべし』」 マルコ9:35 大正文語訳

「そこで、イエスはすわって十二弟子を呼び、そして言われた、『だれでも一ばん先になろうと思うならば、一ばんあとになり、みんなに仕える者とならねばならない』」 口語訳聖書

 「心能(こころ)の自由」

人の先に立ちたいとは思わなくても、そうしなければならない時がある。そのときは「みなのしんがりとなる」

(新改訳聖書)がよい。そうすれば、「心能(こころ)」に自由が得られる。

「只全心を以て神のために服従せよ。さあらぬ限り、心能(こころ)の自由は得られない」(「基督のまねび」)

(†心のデボーション01562)

† 心のデボーション 01563

「希望は恥を來らせず、我らに賜ひたる聖靈によりて神の愛われらの心に注げばなり」 ロマ5:5 大正文語訳聖書

「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」 新改訳聖書

 「回生の希望」

人は使っていた機能が突然とざされると、それとは別の世界が開ける場合があと河合隼雄さんが語っている。(河合隼雄 「出会いの不思議」) 河合隼雄さんはそれを「回生」と呼ぶ。

もとに戻る回復とは異なる新しい開けであるという。

いのちは何かが失われるときに、新しい世界を開くことで乗り越えていくのだろうか。

(†心のデボーション01563)

† 心のデボーション 01564

「われら各樣のたふとき財貨をえ 奪ひ取たる物をもて我儕の家に盈さん」 箴言1:13 明治元訳聖書

「さまざまな宝物を見つけ出し、分捕り品でわれわれの家を満たそう」 フランシスコ会訳聖書

 「略奪の醍醐味」

略奪者はものの価値を知り抜いている。本人がまだ気づいていない価値あるものを密かに見つけ、奪われた者が「略奪」の事実にすら気づかないように奪い取るのが「略奪」の醍醐味である。

「私の手は国々の民の財宝を巣のようにつかみ、また私は、捨てられた卵を集めるように、すべての国々を集めたが、翼を動かす者も、くちばしを大きく開く者も、さえずる者もいなかった」 イザヤ10:14 新改訳聖書

(†心のデボーション01564)

† 心のデボーション 01565

「そはキリストによりて我ら二つのもの一つ御靈にありて父に近づくことを得たればなり」 エペソ2:18 大正文語訳聖書

「それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです」 新共同訳聖書

 「御父に近づく」

パウロは「遠くにいる人々も、近くにいる人々も」「一つの霊」に結ばれて父なる神に近づくことができる」と語る。

「近づく」は英語 access は、「ac ~の方へ + cess 進む」で、「近くに進む」である。

「神に近づく」は「神の中に入る」ことである。神に近づくのは、自分ひとりではなく、「遠くにいる人々も、近くにいる人々も」共に神に近づく祝福がここにある。

(†心のデボーション01565)

† 心のデボーション 01566

「汝われらと偕に籤をひけ 我儕とともに一の金嚢を持べしと云とも」 箴言1:14 明治元訳聖書

「われわれと一緒に、お前もお前のくじを引け。われわれはみなで、一つの財布を持とう」 フランシスコ会訳聖書

 「一つの財布」

略奪者は「一緒に犠牲者から分捕り物を巻き上げ」「お前もお前のくじを引け」と誘う。「くじ」を引いて分捕り物の割り当てを決めようというのである。こうして仲間になって「一つの財布を共有しようてはないか」というのである。なかなか魅力的な誘惑ではないか。

しかし、彼らの言葉を信用してはならない。いつしか、略奪者は仲間を裏切り、自分の割り当てを増やそうと狙っているのである。

(†心のデボーション01566)

† 心のデボーション 01567

「かれらは年老てなほ果をむすび豊かにうるほひ緑の色みちみちて」 詩篇92:14 明治元訳聖書

「白髪になってもなお実を結び、命に溢れ、いきいきとし」 新共同訳聖書

 「老いてからの師」

老いてからの「師」は自分より年下の人を選ぶとよいという。年下の人を「師」と仰ぐことのできる人が老いてなお若々しく生きることができるのかもしれない。しかし、それは「年下の人のまね」をすることでは決してない。

(†心のデボーション01567)

† 心のデボーション 01568

「願くは汝の聖住所なる天より臨み觀汝の民イスラエルと汝の我らに與へし地とに福祉をくだしたまへ是は我がわれらの先祖等に誓ひたまひし乳と蜜との流るる地なり」 申命記26:15 明治元訳聖書

「あなたの聖なる住まいの天から見おろして、御民イスラエルとこの地を祝福してください」 新改訳聖書

 「すなおに年をとる」

孫が二人、町に行って「しこたま、うめえもの食ってきた」のに、たい焼き一つみやげに買ってこない。そこで老婆は「くやしいけど、おてんとさんばかしは欺しがきかねえから、ここは、すなおに年をとっていくしかあんめえと諦めてるのよ、あははは」と笑う。(住井すゑ「牛久沼のほとり」より)

欺しのきかないものの下に生きる人は、少々くやしいことがあっても「あははは」と笑い、「すなおに、年をとって」いけるのかもしれない。

(†心のデボーション01568)

† 心のデボーション 01569

「この故に、われ常に神と人とに對して良心の責なからんことを勉む」 使徒24:16 大正文語訳聖書

「そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしています」 新改訳聖書

 「最善」

「我々が他人の最上の状態を好むように、他人もまた我々の最上を好むのである。 Aliena nobis, nostra plus aliis placent. ラテン語ことわざ」

他人に「最高」を求める人は自分も「最高」でなければならない。それが出来ないのなら、人に「最善」を求めるべきではない。

(†心のデボーション01569)

† 心のデボーション 01570

「信ずるもの男女とも増々おほく主に屬けり」 使徒5:14 大正文語訳聖書

「しかし、主を信じて仲間に加わる者が、男女とも、ますます多くなってきた」 口語訳聖書

 「仲間」

「仲間」を意味する英語 accompany は、「ac ~の方へ + ompany 同行する」で「一緒についていく人」のことで、「仲間」とは行動を共にする人のことである。

教会は「行動を共にする者の群れ」である。

(†心のデボーション01570)

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