† 心のデボーション 01551
「愛は寛容にして慈悲あり。愛は妬まず、愛は誇らず、驕らず」 Ⅰコリント13:4 大正文語訳聖書
「愛は寛容であり、愛は親切です」 新改訳聖書
「愛を行動に移す」
愛は思索の対象ではなく、寛容や親切といった日常のレベルで行動されるべきものである。
人間関係に行きづまると打つ手がみな裏目に出てしまう。その時には、考えてばかりいないで、愛を行動に移すのが良いのではないか。それまでの日常的なかかわりの在り方を変える。愛はどのような状況でも人にかかわることを止めず、行きづまった関係に変化をおこす力である。
(†心のデボーション01551)
† 心のデボーション 01552
「その頃バプテスマのヨハネ來り、ユダヤの荒野にて教を宣べて言ふ」マタイ3:1 大正文語訳聖書
「そのころ、バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った」 新改訳聖書
「沙漠に住む人」
キリスト教会の初期にはバプテスマのヨハネのように、沙漠の洞窟にこもり、厳しい修行によって神の言葉を聞こうとする人々が生まれた。彼らは「穏修士 hermits 」と呼ばれた。hermits(隠者、世捨て人、穏修士)は「沙漠に住む人」を意味するギリシャ語「ἐρήμιτις」に由来する。
沙漠は「変容の地」を意味した。
(†心のデボーション01552)
† 心のデボーション 01553
「陰府のごとく彼等を活たるままにて呑み 壯健なる者を墳に下る者のごとくになさん」 箴言1:12 明治元訳聖書
「陰府のように、彼らを、生きたままで呑み込もう。穴に落ちる者のように、彼らを丸呑みにしよう」 フランシスコ会訳聖書
「丸呑み」
彼らの狙いは人を「陰府」のごとく「生きたままで呑み込む」ことである。死んだ者には関心を持たない。「丸呑み」された者は自分がどこにいるのか気がつきもしない。
(†心のデボーション01553)
† 心のデボーション 01554
「我わが手にて爲たる諸の事業および我が勞して事を爲たる勞苦を顧みるに 皆空にして風を捕ふるが如くなりき 日の下には益となる者あらざるなり」 伝道2:11 明治元訳聖書
「そこで、わたしはわが手のなしたすべての事、およびそれをなすに要した労苦を顧みたとき、見よ、皆、空であって、風を捕えるようなものであった。日の下には益となるものはないのである」 口語訳聖書
「風を捕える」
自分には欲するものは何でも与えられる資格があると信じる人がいる。だが、それで満足するかといえばいつもそういう自分を確認していないと不安になる。変わらなければならないと思うが何を変えたらよいかわからない。
「欲するものが何でも与えられる」というのは決して幸せではない。「何でも与えられる資格」などどこにもない。
(†心のデボーション01554)
† 心のデボーション 01555
「人の言出す言詞には凡て心をとむる勿れ 恐くは汝の僕の汝を詛ふを聞こともあらん」 伝道7:21 明治元訳聖書
「人の言うことをいちいち気にするな。そうすれば、僕があなたを呪っても/聞き流していられる」 新共同訳聖書
「相手変われば」
ことわざに「相手変われど、主変わらず。The attendant is replaced, but the master is not replaced.」という。
相手は変わっても、こちらはいつも同じ。
あることが気になって仕方がないとき、その「あること」を解決すると、別のことがきになりはじめたりする。気になる相手の存在が問題なのではなくて、物事を気にする自分が問題である。自分が変わらないとこの悩みはいつまでも続く。
(†心のデボーション01555)
† 心のデボーション 01556
「事を隱すは神の榮譽なり 事を窮むるは王の榮譽なり」 箴言25:2 明治元訳聖書
「ことを隠すのは神の誉れ」 新改訳聖書
「浅く見る」
ことが隠される時には浅く見るとよいかもしれない。
隠されたことを暴き立てようとせず、表面に軽くふれて通り過ぎる。その時、忘れてならないのは、ことを隠される神の知恵の深さである。
もう一つ、記憶したいのは、隠されたことは、最も良い時に、神が自らそれを現わされることである。
それさえわかれば、隠されたことを浅く見るのもこわくはない。
(†心のデボーション01556)
† 心のデボーション 01557
「虚偽の證人は滅さる 然れど聽く人は恒にいふべし」 箴言21:28 明治元訳聖書
「偽りの証人は滅ぼされる、よく聞く人の言葉はすたることがない」 口語訳聖書
「問題を考え抜く人の言葉」
Today’s English Version 「The testimony of a liar is not believed, but the word of someone who thinks matters through is accepted. 嘘つきの証言は信じられないが、問題を考え抜く人の言葉は受け入れられる」
「問題を考え抜く人の言葉」は「accept つかみ取って、受け取って」よい。
(†心のデボーション01557)
† 心のデボーション 01558
「愚かなる者は惡をなすを戯れごとのごとくす 智慧のさとかる人にとりても是のごとし」 箴言10:23 明治元訳聖書
「愚かな者は、戯れ事のように悪を行う、さとき人には賢い行いが楽しみである。」 口語訳聖書
「パンドラの箱」
昔、すべての子ともはそれぞれに「パンドラの箱」を選んで生まれてくると言われていた。
子どもが自分の力で「パンドラの箱」の蓋を閉められるようになるまでは、大人はその蓋をとじておかなければならないと教えられたという。(ジョン・ローズモンド 「だれが子どもを殺すのか」)
「パンドラの箱」は閉じ込めるのが良いのではなく、開いても自分の意志で閉じられることが必要なのかもしれない。
(†心のデボーション01558)
† 心のデボーション 01559
「老たる者の中には智慧あり 壽長者(いのちながきもの)の中には穎悟(さとり)あり 智慧と權能(ちから)は神に在り 智謀(ちぼう)と穎悟(さとり)も彼に屬す」 ヨブ12:12~13 明治元訳聖書
「知恵は老いた者と共にあり、分別は長く生きた者と共にあるというが、神と共に知恵と力はあり、神と共に思慮分別もある」 新共同訳聖書
「智慧ある老いたる者」
老いたからといって「智慧あり」というわけではない。長く生きたからといって「穎悟(さとり)あり」という
わけにもいかない。ヨブの「智慧ある老いたる者」「穎悟(さとり)ある壽長者(いのちながきもの)」は、それ
らを神に見出す者のことである。ぼんやり老いている場合ではない。
(†心のデボーション01559)
† 心のデボーション 01560
「更に群衆を呼び寄せて言ひ給ふ『なんぢら皆われに聽きて悟れ』」 マルコ7:14 大正文語訳聖書
「それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた、「あなたがたはみんな、わたしの言うことを聞いて悟るがよい」 口語訳聖書
「一を聞いて十を」
ラテン語格言「Ab uno disce omnes.アブ・ウーノー・ディスケ・オムネース」は「一つから全てを学べ」という意味である。論語にいう「一を聞いて十を知る」と同じ意味であろう。
イエスは群衆に「われに聽きて悟れ」と言われた。
十が分かるまで一に聞くべきである。
(†心のデボーション01560)
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