心のデボーション154

デボーション1
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† 心のデボーション 01531

「斯く悟りてマルコと稱ふるヨハネの母マリヤの家に往きしが、其處には數多のもの集りて祈りゐたり」 ロマ12:12 大正文語訳聖書

「患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい」 新改訳聖書

 「痛みに耐える」

男性よりも女性の方が痛みに耐えられるというのは本当かもしれない。病院で一本の注射に貧血をおこすのは決まって男だそうである。痔の手術の後「痔主会(じぬしかい)」までつくって痛みに耐えたことを記念したがるのも男である。

耐えることは、いのちにとことんかかわることに他ならない。女はそのところをよく知っている。痛みに耐えながら、相手と共に自分を知っていく喜びを女性から学びたい。

(†心のデボーション01531)

† 心のデボーション 01532

「我は安然ならず穩ならず安息を得ず唯艱難のみきたる」 ヨブ3:26 明治元訳聖書

「静けさも、やすらぎも失い/憩うこともできず、わたしはわななく。」 新共同訳聖書

 「安らぎ」

試練を受けてヨブは「私には安らぎもなく、休みもなく、いこいもなく、心はかき乱されている」という。

心安らぐことのできる相手を持てないのは寂しい。その時、相手に安らぎを感じる心が自分に欠けていることも多い。何かに「心がかき乱されている」ために相手に安らぎを感じる心が欠けているのかもしれない。

(†心のデボーション01532)

† 心のデボーション 01533

「陰府のごとく彼等を活たるままにて呑み 壯健なる者を墳に下る者のごとくになさん」 箴言1:12 明治元訳聖書

「陰府のように、彼らを、生きたままで呑み込もう。穴に落ちる者のように、彼らを丸呑みにしよう」 フランシスコ会訳聖書

 「死の穴」

人生には幾つもの「死の穴」が開いている。そこに落ちるものは「いのち」を「丸呑み」にされる。だが、その「穴」は「罠」であって外からでは見えない。しかし、神を畏れる者の目には「穴」は容易く見分けられるだろう。彼は「穴」の存在を見分けるだけでなく、それを避ける道を知るのである。

悪しき者が神を畏れる者の魂を「呑み込む」ことはできない。

「又われらかれを呑つくせりといはしめたまふなかれ」 詩篇35:25 明治元訳聖書

(†心のデボーション01533)

† 心のデボーション 01534

「みよ子輩はヱホバのあたへたまふ嗣業にして 胎の實はその報のたまものなり」 詩篇127:3 明治元訳聖書

「見よ、子どもたちは主の賜物」 新改訳聖書

 「主の賜物」

子どもは「主の賜物」である。

ヘブル語で「賜物」は「相続」をあらわす。子どもは神からの「主の賜物・相続」である。

親には子どもが、神から相続した「賜物」を見つけて育てる責任がある。その意味で、親はある時期、「神の代理人」を務める。神を喜ばずに、その業はかなわない。

神から受けたものはいつか神に返さなければならない。

(†心のデボーション01534)

† 心のデボーション 01535

「汝の父母を敬へ」 出エジプト20:12 明治元訳聖書

「あなたの父と母を敬え」 口語訳聖書

 「親」

「親」という字は「しん」を「見る」と書く。「しん」は対象を意味し、相手を近くに見ることである。「親」は人が最も近くに見る最初の「人間」である。

人は親を選ぶことはできない。近くに寄って見出すのである。

ちなみに「親切」は、中国語で「切」は刃物が肌にぴたりと当たることで、相手の近くに寄り添うの意味であるという。

(†心のデボーション01535)

† 心のデボーション 01536

「また夢にて御告を蒙り、ガリラヤの地方に退き」 マタイ2:22 大正文語訳聖書

「ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり」 新共同訳聖書

 「故郷ナザレ」

ヨセフはエジプトから「ガリラヤ地方」に退き、「ナザレ」に住んだ。(マタイ2:23)

「ナザレ」はもともと、ヨセフとマリヤが婚約して暮らしていた所である。(ルカ2:4)

ヨセフの先祖の地はベツレヘムであり、住民登録のために訪れたベツレヘムで身重のマリヤがイエスを出産したのである。エジプトから戻ったヨセフとマリヤは郷里に戻ったのである。

イエスの両親ヨセフとマリヤの出生、出会いなどイエス誕生以前の事柄について聖書は多くを語っていない。

(バプテスマのヨハネの母エリサベツが祭司の家系であり、マリヤの親戚であったことはわかっているが、「聖母マリヤ」について我々は、その出生から結婚まで、多くを知らない。このことは「マリヤ崇拝」に一考の余地あることを示す)

(†心のデボーション01536)

† 心のデボーション 01537

「賢人は知識をかくす されど愚なる者のこころは愚なる事を述ぶ」 箴言12:23 明治元訳聖書

「思慮深い人は知識を隠す。愚かな心はその無知を言いふらす。」 新共同訳聖書

 「薄迦梵」

「薄迦梵」はバギャボンと読み、釈迦如来の称号で、「世に尊ばれた人」の意味であるという。赤塚不二夫さんの『天才バカボン』の「バカボン」は「薄迦梵」からとったものだそうである。「バカボン」は「世に尊ばれた人」であって、馬鹿者ではないようだ。

箴言は「思慮深い人は知識を隠す。愚かな心はその無知を言いふらす。」(箴言12:23 新共同訳聖書) これが本物の「馬鹿者」かもしれない。

(†心のデボーション01537)

† 心のデボーション 01538

「愚なる婦は嘩しく且つたなくして何事をも知らず」 箴言9:13 明治元訳聖書

「愚かな女は、騒がしく、わきまえがなく、何も知らない」 新改訳聖書

 「すねる」

女性には論理的に行きづまると「すねる」という武器がある。不意に沈黙して、それでも効果がなければ泣いてみせるという奥の手もある。

すねている女性を攻撃する男性は最低だ。彼女は論理的に表現しきれない心の痛みを伝えようとしているだけなのである。しかし、すねも行き過ぎれば、ただの「騒がしく、わきまえのない女」である。上手にすねることだ。それにしても、男性がすねるのはいただけない。

(†心のデボーション01538)

† 心のデボーション 01539

「神言たまひけるは水の中に穹蒼ありて水と水とを分つべし」 創世1:6 明治元訳聖書

「神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ」 新共同訳聖書

 「大空」

「大空 רָקִיעַ ラキア」は「金属を打って伸ばす」に由来することばであり、LXXは「 στερέωμα

強固にするもの、骨組み」、Latin Vulgateは「Firmamentum 固定手段、支柱」、バルバロ訳聖書は「屋根」と訳す。

大宇宙の強固な骨組みを意味するものと考えることもできる。「大空」は支柱(大屋根)として「いのち」を覆うのである。

(†心のデボーション01539)

† 心のデボーション 01540

「すべての操守べき物よりもまさりて汝の心を守れ そは生命の流これより出ればなり」 箴言4:23 明治元訳聖書

「用心深くお前の心を守れ。そこから、命の泉が湧き出る。」 フランシスコ会訳聖書

 「中をしっかり作れ」

白洲正子さんが「近ごろの陶芸は、外側ばかり飾りたがるが、陶芸は内側から作るもので、ろくろでも手びねりでも、中をしっかり作っておけば、外の形はおのずからきまってくる。外側をいじくるのは一番いけないことなのだ。いい能面は、裏も表におとらず美しい。」というある陶芸家の言葉を書いている。(『夢幻抄』より)

人も、「中をしっかり作っておけば、外の形はおのずからきまる」のかもしれない。

(†心のデボーション01540)

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